その人のために死ねるか

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クリップの続き。

 「その人のために死ねるか」ということは、愛の本質を見極める一つの踏み絵だと私は過去にも思ってきたし、今でもそう思っている。私が『誰のために愛するか』というエッセーを書いたのは1970年。もう40年近くも前のことだ。しかしその間に私は答えを変質させることができた。
 愛は「好きである」という素朴な感情とはほとんど無関係だという厳しさを知ったからである。キリスト教における愛というものは、むしろ自分の感情とは無関係に、人間としてなすべき態度を示すことだ、とされている。つまりその人を好きであろうがなかろうが、その人のためになることを理性ですることなのだ、と私は知ったのである。
 私たちは子供のときから、裏表のある態度を戒められるが、キリスト教は、むしろ裏表を厳しく要求しているように見える。心の中は憎しみで煮えくり返っていても致し方ない。そのときでも、柔和に、しかも相手のためを思う理性を失わないことだ、というのだ。
(産経新聞、「小さな親切、大きなお世話」、神のいる場所、曽野綾子、2009/7/24、p.1)

愛の本質とは「理性」。身に沁みる言葉であります。 KAI