マイケルは伝説になった(2)

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自殺といえば、ちょうどのタイミングで曽野綾子が、絶妙の文章を書いている。

 平和で食料も十分にあるこの日本の生活を、幸福と実感できない日本人がたくさんいて、多かれ少なかれ鬱に苦しんでいるということは、不幸なことだと思う。
 私も若いとき、2度にわたって長い不眠症と鬱の時代を過ごしたが、30代のときは、まだ力もないのに多作を強いられたからだった。(中略)
 50歳直前のときは、視力の危機だった。(中略)運が悪ければ手術をしても執筆生活は不可能になるかもしれないとなったとき、私は鬱になった。
 それにもかかわらず私は一見元気に振る舞っていたので、以前に約束したトルコへの調査旅行の日取りが近づいてきた。私はもう行く気がなかった。自分の行動も不自由になっていたからだ。(中略)
 迷子にはさせませんから、と同行者が言ってくれて私は出かけることにした。皆の計画に水を差すのも辛かった。しかし旅に出てからも、私はずっと死ぬことを考えていた。
 私たちはイスタンブールに着き、そのまま約400キロの道をアンカラに向かった。今はすっかり様変わりしているだろうが、当時のこの幹線道路はドライブインもなく、道もところどころ未舗装で、夕方6時ごろには着くという予定はどんどん狂った。途中で食事をする場所もなかった。私たちは手持ちのお菓子などを分け合って飢えをしのいだ。
 夕暮れの中で私はある感動にとらえられた。6本の連載をすべて休載してから初めて、私はその数時間だけ死ぬことを忘れていた。私はいつ夕飯を食べられるだろうかということだけを考えていたのだ。それは「欠落」によって得た輝くような生の実感だった。
 鬱には断食がいいだろう、と私は今でも思っている。日本では、安全が普通で危険は例外だと思っていられる。飽食はあっても飢餓がない。押し入れは物でいっぱいで、部屋にあふれた品物が人間の精神をむしばむ。
 もちろん世の中には、お金も家もなくて苦労している人がいるが、それより数において多くの人が、衣食住がとにかく満たされているが故に苦しんでいる。
 人間の生活は、物質的な満足だけでは、決して健全になれない。むしろ与えられていない苦労や不足が、たとえようもない健全さを生むこともある。このからくりをもう少し正確に認識しないといけない。
(産経新聞、透明な歳月の流れ、欝には断食がいい 苦労や不足が健全さを生むこともある、曽野綾子、2009/7/1、p.7)

つまり、最後のくだりの「このからくり」こそ、今回の自殺多発問題の本質です。

「苦労すること」、「不足すること」。この反対の、「楽すること」、「充足すること」を第一義とするのが今の消費社会であり、エコといいながら、決してこの消費のための二枚カンバンがおろされることはありません。

「苦労すること」、「不足すること」を忌避した無菌社会で、何が起こっているのか。それは「苦労すること」、「不足すること」に耐性がない、鬱病患者と自殺者の急増であります。彼らや彼女たちにとって、この耐性がないことの自覚はありません。ただあるのは、望まない「苦労」や「不足」を押し付けられたと言う「被害者意識」だけであります。

この「被害者意識」は、日々生きていれば当たり前に起きる些細な「苦労」や「不足」をさえエネルギーにして、目の前の「苦労」や「不足」と言う厄災を自分にもたらすとする仮想敵相手に、癌細胞がごとき異常増殖を続けるのです。

「鬱には断食がいいだろう」と曽野が書いている通り、「被害者意識」と言う左脳に支配された鬱病患者を救う方法は、断食と言う無条件の「苦労」と「不足」の状況を、患者本人に受け入れさせることです。

しかし現実社会では、この具体的な「断食」はなかなか難しい。難しいけれど、メディアが、これを伝えることは容易です。もちろん、メディア自身がこの「このからくり」を理解していなければ、これは実現されません。ただメディアがやるべきことは、簡単です。単に、ドキュメントで断食によって鬱病が劇的に改善されることを、伝えるだけで良いのです。

マイケルも、ネバーランドが奪われると言う「苦労」と「不足」に見舞われた。恐らく彼にとってこれは、生まれて初めてのことだったから、耐性もない。いつものように「処方ドラッグ」に溺れたのは間違いありません。

一方で、ロンドン公演のためのリハーサルを繰り返せば繰り返すほど、これをぶち壊すと言う誘惑にかられる。ひたすらネバーランドの仮想敵を倒そうとした。

そして公演まで、あと13日。これを、マイケルの左脳が、決行する。

マイケルに、ビートルズの救いとなったインド哲学なんだよと言って「断食」をやらせるような人間が、もしいれば、歴史は変わっていたかも知れない。 KAI