またぞろ共同体論が跋扈し始めた。
共同体の呪縛(じゅばく)から逃れ、自由を謳歌(おうか)する現代人の多くは、いまやその反動として、社会から孤立するようになった。格差拡大によって貧困層が目立って増え、日本社会の温もりが消え、人と人との絆が希薄になり、人心が荒(すさ)み始めた。これが日本社会の現状だ。
もちろん、昔のままの日本に戻るという選択肢はありえない。そんなことは不可能である。しかし、このまま突き進めば、日本社会はその本来の良さを失い、日本文明は荒廃に向かうだろう。この辺りで立ち止まり、「孤立した貧困層」の問題を直視すべきなのではないだろうか。(なかたに いわお)
(【正論】三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長・中谷巌)
「孤立した貧困層」の問題を、共同体論で片付けることは簡単ですが、ご本人もおっしゃるとおりそこに解決の答えはありません。
そもそも「共同体の呪縛から逃れ、自由を謳歌する現代人」と言う話を、冷静に考えてみる必要があります。そんな自由を謳歌する人が、いったい私達のまわりに、いるのでしょうか。依然として、家族、会社、学校、自治体など制度に組み込まれた共同体の呪縛から、私たちは逃れることができず、もがき続けているのが実態ではないでしょうか。
そしてこれをもう少し深く考えると、私達の古くからあった共同体は、中谷氏が言うほど「機能」していたのでしょうか。
社会的不確実性を排除した社会によって担保されてきた、安心。社会的不確実性を前提にした社会においてこの不確実性を乗り越えるための、信頼。関係性検知能力に依拠した安心社会ではなく、人間性検知能力に裏打ちされた信頼社会。
(安心と信頼)
単に、共同体と言う安心社会の「安心」を、共同体の「絆」と勘違いしていただけではないのか。
このことの意味は、きわめて重要です。
どちらが先にあるかと言えば、「絆」ではなく、共同体の「安心」であると言うこと。「安心」を維持するための「絆」であったし、今も昔も、これになんら変わりはない。
すなわち、これはすでに言ったとおり、共同体の問題として解決できる話ではないと言うことです。結論をいってしまえば、「孤立した貧困層」とは、安心社会の村八分、共同体から弾き飛ばされた人々であり、制度としての共同体概念の限界といえます。
人間社会は、生き物。生き物をよりよく成長させる方法は、いまやっと理解した。
共同体と言う制度自体に言及しても、なにも変わらない。
「人を助ける」ことに価値観をおき、具体的に「人を助ける」活動こそ、世の中を変えていきます。これをインターネットのソーシャルサービスが、いままでの制度としての共同体とは、まったく異なるかたちで、実現する。最近、KAIは、これを強く信じているのです。 KAI
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