伊東乾の常識の源流探訪がなかなか面白くなってきた。
伊東(以下――) 今月、つまり2009年5月21日に、いよいよ日本で「裁判員制度」が導入されます。そこで64年前の1945年から、第2次世界大戦後の「司法改革」に当たられ、GHQと折衝しながら現行の刑事訴訟法・・・いや、今や旧刑事訴訟法というべきかもしれませんが、世界的にも完備で名高い刑事法体系を自ら書き上げられた團藤先生に、2009年5月時点でのご所見や、私たち一般国民が意識しておくとよいことなどを、まとめてお伺いしておきたいと思いました。そもそも先生は裁判員制度にはご反対だったのですよね?
團藤 ええ、僕自身は今出ている裁判員の制度には反対なんです。でも、決まってしまったものは、それに即して実務を考えてゆかなきゃならないでしょう。
(破壊と創成から考える「裁判員制度」常識の源流対論・團藤重光(その1)1/7ページ)
いよいよ来週から始まるこの裁判員制度、いままでこの制度の負の側面ばかりが気になってKAIも今ひとつ同意できないでいたのですが、この対談を読んで、少しばかり気が楽になってきた。
二人の話のおかげで、一挙に視点が拡がった。
―― 「立法」まできちんと視野に入れる法律家はとても少ないですね。「あなた、それは立法論でしょ?」という台詞は、法解釈の世界では、解釈能力がないという悪口だと聞きました。
團藤 でも必要なら法も作らなければなりません。
―― 実際に昭和20年代に法を作られた團藤先生だからおっしゃれることだと思います。最近は社会科学が生物学や医学の知識を使うんですが、今のお話は「動的安定性」ダイナミック・インスタビリティーという、生命現象なんかを説明する議論とも重なっていると思いました。
團藤 ほう? それは。
―― 人間の命なんかもそうで、完全に硬直してしまったら死んでしまいます。細胞でも器官でも、常に「動中静あり」ということを体現しているわけです。
團藤 うん、面白い。
(破壊と創成から考える「裁判員制度」常識の源流対論・團藤重光(その1)6/7ページ)
法制度が、人間社会と言う生きた世界の規範となるためには、法制度自身が自ら変化していかなければならないと言うわけです。
その変化を吸収するための仕掛けこそ、裁判員制度に他ならないと。
なるほど、こう理解すれば、すべてが納得がいく。
ここに、生き物の仕掛けを変えていくための、とてつもないアイデアが隠されていました。
「公正で人間的な社会」を「永続的に、法律によって確実なものにする」ことは不可能である。
それを試みる過程で100%の確率で「不公正で非人間的な政策」が採用されるからである。
「公正で人間的な社会」はだから、そのつど、個人的創意によって、小石を積み上げるようにして構築される以外に実現される方法を知らない。
だから、とりあえず「自分がそこにいると気分のいい場」をまず手近に作る。
そこの出入りするメンバーの数を少しずつ増やしてゆく。
別の「気分のいい場所」で愉快にやっている「気分のいいやつら」とそのうちどこかで出会う。
そしたらていねいに挨拶をして、双方のメンバーたちが誰でも出入りできる「気分のいい場所」ネットワークのリストに加えて、少し拡げてゆく。
迂遠だけれど、それがもっとも確実な方法だと経験は私に教えている。
神戸女学院大学は私にとって「たいへん気分のいい職場」である。
ここが私の「隗」である。
だから、「10年後の日本社会」を望見するときに、今自分が立っているこの場所「のような場所」が日本全体に拡がることを希望することになるのは理の当然なのである。
(まず隗より始めよ)
これもシンクロニシティ。このアイデアをウチダ先生がうまい具合にまとめてくれています。
KAI自身も、自分の思いを実現するには、結局自分自身からこれを実現するしか、他に方法がないと気づいて10年。生き物であるアプリケーションを育てていくための環境を、自らの周りに、まず構築する。すべてがここから始まる。この意味が、いまやっと、理解できたのです。
どんな小さくてもいい。まず自分自身がその当事者となって、その中に入って、いかに「感じる」か。
これこそすべての原点です。
村上春樹が言うシステム、すなわち「制度」と戦う方法とは、「制度」自体を変えることではないと言う、すばらしいアイデアであるのです。
これを迷うことなく、やるしかない。やっと自信が湧いてきました。 KAI
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