せっかくのGW、父と楽しみに来たスポーツクラブで怒鳴りつけられるとは、世話はない。
テニスが終わって気持ち良くサウナで汗を流していると、小学生と思しき坊主が、サウナの扉を開けて中をのぞく。そのまま扉を閉めたかと思うと、また開けて入ってきた。1分もしないうちに出て行ったかと思うと、しばらくしてまた入ってきて、また出て行った。また扉を開けて、怒鳴られた。
父親も一緒にいたのでしょうが、いいかげん注意一つしない。怒鳴り声にビックリしたのか、しばらくたってサウナから出て見たら、子供も親もいなくなっていた。この親子の不幸は、親が子にマナーを躾けないことではない。子の行為の先にある他人のちょっとした心の痛みに思いが至らない、この父親の鈍感さにある。
そして憲法記念日。毎年憲法記念日恒例のウチダ先生の持論が炸裂。敗戦後日本国民が一人として戦渦にまみえることのなかったのはこの憲法があってのこと。「戦争ができる権利」を求める改憲論者には、自ら戦場の「消耗品」となる覚悟と可能性なくして「戦争ができる権利」を唱える資格はない、とおっしゃる。
この論理を進めていけば、同じ憲法問題である死刑の存廃論議においてさえ誰も死刑の存続を主張できなくなってしまう。
要するに、蓋然性の極めて低い当事者能力を持つものしかその権利を主張できないとする論理は、例えば今の自衛隊員のような「戦争ができる権利のない」兵士の家族や、死刑囚によって殺害された被害者の家族が当然持つ、「当事者の権利」回復への思いを、安易に切り捨てる論理といわざるを得ません。
これは、先日KAIが感動した小川彩佳の感受性問題そのものであります。
「感受性」とは、何か。いま目の前にいる人間の心に反応することを、感受性とは呼ばない。目の前にいる人の先にいる、もう一人の人間の心に反応できることを、感受性と言うのです。小川彩佳は、目の前にいる元被告の思いにではなく、目の前にはいない元被告の家族の思いに胸を詰まらせたのです。
サウナの話も、憲法の話も、この「感受性」に著しく欠けていると言うわけ。
目の前にいる人間の心に反応できない者は、単なる鈍感バカ。目の前にいる人間の先にいる、もう一人の人の心にまで反応できる「感受性」こそ、人と人との関係を潤い豊かにする、もっとも重要な人間としての能力なんです。
ま、そんなこんなで、連休真っ盛りの週末テニス。
まだまだ休みが続くと思うと、気持ちにゆとりがあって、いつもと全然違う。
土曜テニスも、そのおかげか。6-3、0-6、6-5と、時間切れ寸前に最後のゲームをとって、ネモトくんから貴重な1勝をあげる。終盤は必ずエネルギー切れを起こすのに、タケノコパワーと連休効果が効いて最後までもった。
翌日曜もエネルギーのいるテニスになった。6-3、6-7(7-9)、1-5と1勝2敗。この第2セットがもつれにもつれた。一旦2-5までリードされたところで、開き直った。4ゲーム連取して6-5まで挽回。ここでKAIのサービスながら、なぜかキープできずタイブレークに突入。そして7-6と、あと1ポイントで勝ちと言うところで、またしてもKAIのサービス。そしてまたしてもなぜかサービス2ポイントすべて落として、7-8の絶体絶命。しかしもはやここまでと、力尽きた。
それにしてもひろいにひろいまくったもんだ。調子がいいから相手がどこに打つか手に取るように見える。にもかかわらず決定的場面でサービスをキープできない。理由は簡単でついつい守りに入ってしまう。突破するには攻めるしかないのに。まだまだ修行が足りません。
あとは反省しながら乾杯するしかないとアンジェロで生ビール。ぐびぐび、ごっくん、ぐびぐび、ごっくん。ぷっふぁしあわせ^^;。 KAI
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