IMEとはてなにみる思考の崩壊

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5連休も残すところあと1日。

今日は、こどもの日であると同時に、二十四節気の立夏。1年時計で言えば午前9時。12時の夏至(6月21日)まであっという間。

そういえば朝の散歩も、ずいぶん日が高くなってきた。残念ながら今朝は玄関を出るなりほんの雨粒と、そろそろぽつぽつきそうな曇天。さすがに休日と言うこともあって、いつもの犬の散歩の人と誰も会わない。おかげで思い切り瞑想の世界に入る。

例年GWは、会社に出て、この瞑想の絶好の機会になる。昨日も1日会社にいたけれど、今日は自宅で考え事をすることにした。会社に出ると、連休明けに提出しなければならない資金繰り表をつくることになって、瞑想できないからです。

と言うことで、脈絡なく、IMEとはてなにおける前頭葉が美しくない件の考察について。

まるでKAIの思考過程とそぐわないのが、IMEの日本語変換。この作法が、シアトルのマイクロソフト本社を訪ねたときも、その間の飛行機の中の液晶パネルの中でも、クイズ形式でつねに出てくる。そうおもってはてなダイアリーを眺めると、はてなの違和感の本質が、ここにあったことに気づく。

ATOKとIMEの決定的な違いは、日本語変換に、「意味」のルールを内在化できているかいないかであり、ATOKはこれができて、IMEはまったくこれができていないことです。

IMEやはてなが行っているのは、既出のキーワードを最新頻度と言う重み付けするだけで、あとは三択、四択、五択問題と言う、原始生物粘菌の知性にも劣るルールしか採用できていません。

例えばはてなにおけるキーワードのリンクも、まるでスターと連動するわけではなく、スターのような重み付けは、キーワードとの動的なリンクがあって始めて、そのアプリケーションとしての意味を持つのです。これを近藤さんは、いえ、LUNARRの高須賀さんも、理解できていません。

ぜひともお二人には、ジャストシステムの浮川さんを訪ねてほしい。

ATOKでできていることは、そんな複雑なことではありません。単なる前後のキーワードの連関をそのリンクに反映させているだけです。

実は、「KAIの思考過程」とは、これ以外にはないのであります。

少し前にアプリケーション概念の拡張の中で取り上げたウチダ先生の、

細かく見ると切りがないが、このような「同音、同綴、アナグラムを構成する文字」が2行ごとに「固め打ち」されているということから、私たちが想像できるのは、二行並韻はおそらく「聴覚映像と視覚映像のアモルファスなかたまり」として詩人に到来するということである。
詩人はそれを分節して、経時的に配列する。
その結果、あたかも先行する文字や音韻が後続する文字や音韻を「導き出している」かのように仮象する。
詩人は時間の流れの中で詩作しているのではなく、詩作することによって、詩人が時間を紡ぎ出しているのである。
韻とアナグラムは時間系の中に紛れ込んだ美的変数ではなく、韻とアナグラムを常数核にして、時間そのものが醸成されているのである。
私はそんなふうに考えている。

この言葉の中に、そのすべてのヒントが隠されている。

変換候補は、すでにそのキーワードを打ち込む前から用意されていなければならない。

この唯一つの真実が、近藤さんや、高須賀さんが、理解できていないし、浮川さんはできている。それはなぜか。思索と言う行為に自省的であるか、そうでないか。これだけです。

そろそろ、ちんぐで、酔いがまわってきた。

至福とは、この世界以外には、ありません。 KAI