アートとは何か。絹谷幸二には、アートな時間軸上で果てしなく退化しつづける人間の姿が、はっきりと目に見えているようです。
40歳を過ぎるころまでは、人間は絵というものを描けるのだから、少なくとも猿や鳥、犬たちよりも立派な代物だと鼻高々であったし、まさか長谷川等伯(とうはく)が描いた手長猿が、描いた作者より優れているとは夢にも思わなかった。(中略)
1990年代のある夏、私は家族と連れだってゴーギャンの住んだ島、フランス領タヒチにバカンスに出かけた。(中略)この南海の解放感に酔いしれ、夢うつつとなったそのとき、ある考えが頭に浮かび、身の毛がよだつような衝撃に見舞われた。
「人間だけが芸術を創(つく)り出し、すべての動植物の先端にいるというダーウィンの進化論は、もしや誤っているのではないか」。進化する階段の真後ろに退化する階段が同時並行し、奈落の底に降りていっているのではないか。人間は猿から進化したのではなく、猿から退化した代物ではないのか。等伯が猿以下とは思えないのだが、あの手長猿の優美な形、毛並み、艶(あで)やかで屈託のない姿を思いだすと、この美しいサンゴ礁を破壊した英知の結晶、核を操る人間とは、それほどに進化を遂げているのだろうか。
鳥も花も魚も猿も、実は自身の身体を支持体とし、そこに見事な絵を描いているアーティストだ。一見、黒々と見えるカラスの羽の艶やかさも、気味悪げなクモの四肢やネットも、幾何学的なバランスの上に成り立っているアートだ。
(中略)
進化に疑問を抱き、生命のコア(核)を探す。裸同然で眠りと覚醒(かくせい)のはざまにいた私は、衝撃が全身に走り、人間だけが絵を描くのだという思い上がりに寒気が走った。
(産経新聞、アートな匙加減、アートパフォーマーは誰か、絹谷幸二、2009/4/22、p.1)
なるほど人間の前頭葉であたかもつくりだしたかのようなアートなど、自然のアーティストたちが生み出すアートにくらべればまるで美しくない。前頭葉は、美しくないのだ。これを読んでKAIもまた、身の毛がよだつほどの衝撃を受けた。
そうか、そうか、そう言うことだったのか。
准環境とみなしたユーザーイクスペリエンス。しかしどれをとってもKAI的には、美しいとは思えなかった。どれもアーティスト気取りのデザイナーのつくった、けばけばしい人工色と平衡感のないフォルムに埋め尽くされている。いままでずっと感じてきた違和感の正体とは、これだったのか。
こんなユーザーイクスペリエンスと一体感を感じることなど、もとより無理なお話だったのです。
アートはすでに、ある。アーティストは、これに少しでも近づくだけである。
ユーザーイクスペリエンスはすでに、ある。アーキテクトは、これに少しでも近づくだけである。
やっとすべての原点に立つことができた。 KAI
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