ひさしぶりにはてなの近藤さん、思わぬメディアでお見掛けいたしました。
ネットを大学時代から熟知した近藤社長に、ネット検索が思考の低下を招くという懸念について聞くと、答えは明快だった。
「検索と、図書館で資料を集めることに違いがあるとは思えない。だから検索はどんどん使えばいい。検索がだめというのは、人との連絡に電話を使うな、手紙を書けということと同じ。覚える必要がなければ、考えることに時間を振り向けることができる」
(【すくむ社会第1部】ITベンチャー「はてな」が京都に戻ったわけ〜『考える』の空洞化(6)(2/4ページ))
この記事の執筆者(達?)は、最初から「ネット検索が思考の低下を招く」と言う結論を前提に議論したいらしい。(【すくむ社会第1部】結論は考えて導くのではなく検索してたどり着くもの〜『考える』の空洞化(1)(4/5ページ))
これに対して近藤さん、無難な答えと思いきや、な、なんとこの記者、とんでもないことを言う。
近藤社長がそう言うように、覚える作業は機械に委ね、その分創造性を高めようとする発想は実は今から40年も前にあった。「情報産業」という言葉の生みの親で、国立民族学博物館初代館長、梅棹(うめさお)忠夫氏(88)は、ベストセラーの「知的生産の技術」(昭和44年初版)で、日々の気づきや発見をカードに書き記し、アイデアの創造に結びつける同氏提唱の「京大式カード」をこう説明している。
「カードはコンピューターに似ている。コンピューターも、人間のかわりに機械が記憶するのである。どちらもいわば『忘却の装置』である」
京大式カードの考え方は、IT技術に取り込んで発想支援ソフトの開発につなげる研究者もおり、現在も生き続けている。梅棹氏は同著で、この方法を追求した理由について、「『時間』がほしいからでなく、生活の『秩序と静けさ』がほしいからである」と述べ、効率よりも精神的な安らぎの大切さを指摘している。
(【すくむ社会第1部】ITベンチャー「はてな」が京都に戻ったわけ〜『考える』の空洞化(6)(3/4ページ))
ネット検索の話が、なんで京大式カードの話になるの。強引もいいところですが、さらに「生活の『秩序と静けさ』がほしいから」と言う梅棹の著書の言葉を持ち出して、はてなが京都へ引っ越した理由に結びつける。これでは、単にネット検索のキーワードを羅列した学生のレポートと一緒。この記者の「頭の中」こそ「空洞化」しているのではありませんか。
そもそもこの記事のテーマとは、いったい何なのか。「『考える』の空洞化」と言う以上、ネット検索が思考に与える弊害が論点ではないのか。と思ってあらためてシリーズの記事を読み直したが、さっぱり話題が繋がらない。いや「言葉」としては繋がっているけれど、「意味」として繋がらない。
いろいろ事例を挙げているが、一体どれが、『考える』の空洞化、すなわち「思考停止」を挙証する事例なのでしょうか。例えば学生のコピペレポート。この学生が、もしネット検索がないとしたら、自分の頭で考えたレポートを書くと言うのでしょうか。そんなバカな話はないでしょう。
しかしこれは凄いことになったもんだ。こんなオムニバスともつかない記事をよくも平気で掲載するもんだ。
いや、これこそが「『考える』の空洞化」を挙証しているとすれば、これはこれで凄い記事とも言えるわけで。いやはや恐れ入りましたです、ハイ。 KAI
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