ウチダ先生とヒラカワさんのブログの書き込みによれば、ミシュランガイド京都・大阪版発行がもめているそうな。
「街的」の骨法
腐ってもミシュラン
ウチダ先生も書いているように、格付けとは要するに「記号化」です。情報社会とはすなわちこの「記号化」そのものであって、今や情報社会の代表企業であるグーグルが地球ベースで(あるいは月も含めて)この「記号化」を強力に推し進めている事実こそ、情報社会を象徴しているといえます。
さきのグーグルのストリートビュー騒ぎもそうですが、この「記号化」は、必ずしも人々に受け入れられていません。
ミシュランガイド京都・大阪版の問題を含めて、この受け入れられない理由とは、一体何か。
それは、記号化されることによる実体の価値の著しい毀損以外の何ものでもありません。そしてこの毀損される実体の価値とは、記号化されないこと、それ自体の価値であります。
しかしこの価値を保つのは容易ではありません。ミシュランもグーグルも異議を唱えない限り(唱えても)記号化を止めることはありません。
わたしたちは、どうすればこの「記号化」されない自由を獲得できるのか。この答えをいま簡単に見出せるとは思えませんが、少なくとも「記号化」を単なる抗議と言う形で忌避する方向には、この解決の糸口はないと考えています。むしろ、記号化を超える、超記号化の考え方が必要ではないかと思うのですが、はてさてこれは具体的に何を意味するのか。
いま世の中にブラックリストと言うものがあって、これにリストされると、検索対象から強制的に排除されます。これをまったく逆の意味で、すなわち検索対象から除外されるのを、積極的に申し立てる、イエローリストみたいなものがあると、どうなるか。
もちろんHTMLのメタタグで検索ロボットのクローリングを拒否することはできますが、イエローリストはそうではなく、インターネットはもちろんあらゆるメディアで、その表示を規制する機能を持たせるものです。
例えばイエローリスト法と言うものをつくる。この法律では、誰でも、イエローリストに、ある「記号」を登録することができる。一旦このイエローリストに「記号」が登録されると、あらゆる公的メディアは、この「記号」を表現に使用するには「記号」の登録者の許可が必要となります。
ただこれだけでは、著しく表現の自由に抵触しますので、「報道」についてはこれを適用しないとするのです。またこれ以外のあらゆる表現において、事後承諾を前提とした無許可の表現を可能とします。万一事後に承諾を得られない場合、登録者からの損害賠償請求のリスクを負うことになります。
これはある意味、以前一度言及した商品化権と似ているかもしれません。
いずれにせよ、また一つ面白い研究テーマが見つかった。 KAI
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