アプリケーション概念の拡張

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今、アプリケーション概念の拡張と言う作業に取り組んでいる。

これは、アプリケーションと言うものについて、プログラムによって自在にコントロールできるソフトウェアとしてのアプリケーションの次元から人間系との関係の次元にまで拡張した自己組織化アプリケーションと言う概念を、更に一歩進めて社会系との関係にまで拡張する作業ですが、これがなかなかうまくいかなかった。

自己組織化アプリケーションの概念構築作業においては、ある程度ソフトウェアと言う確固たる法則性を基盤にすることができたけれど、今回はまるでその手がかりが見えなかった。

これが思わぬところにヒントがありました。

細かく見ると切りがないが、このような「同音、同綴、アナグラムを構成する文字」が2行ごとに「固め打ち」されているということから、私たちが想像できるのは、二行並韻はおそらく「聴覚映像と視覚映像のアモルファスなかたまり」として詩人に到来するということである。
詩人はそれを分節して、経時的に配列する。
その結果、あたかも先行する文字や音韻が後続する文字や音韻を「導き出している」かのように仮象する。
詩人は時間の流れの中で詩作しているのではなく、詩作することによって、詩人が時間を紡ぎ出しているのである。
韻とアナグラムは時間系の中に紛れ込んだ美的変数ではなく、韻とアナグラムを常数核にして、時間そのものが醸成されているのである。
私はそんなふうに考えている。
それは音楽の場合も同じである。
モーツァルトの楽曲はすべて「一気に」その脳裏に到来した。彼はただそれを楽譜に「転写」するだけだったと言われている(だから、彼の楽譜には1カ所も書き直しがない)。
けれども、楽譜に転写中のモーツァルトに向かって「途中はいいから、最終楽章の最終楽節だけ聴かせてくれ」と頼んでも、あるいは「次の楽節を最後の音から逆に演奏してくれ」と頼んでも、たぶん「それは無理だ」と言われただろう。
たしかに曲は終わりまで完成している。
モーツァルトはそれを「出力」しているだけである。
けれども、それを「出力」するためには、通時的な流れを形成しなければならない。
定められた順番通りに演奏しないと、次の楽章には進めない。
時間はそのようにして生成されるのである。
詩や音楽が人間にとっての時間を作り出すのである。
「人間的時間」とはそのことである。
人間的時間

ウチダ先生のブログからの引用ですが、こうして文章と言うかたちで目に見えるようにしていただくと、あらためて今自分のやっている作業の意味がよく見えてきた。

一つのアプリケーション(の一部の機能)を設計する作業は、私の場合、すべて頭の中で行います。

この作業を人に説明するときによく使うのが、無重力空間に立体ジグソーパズルのピースが浮いていて、ある時突然全てがうまく組み合わさって、パズルが完成する、そう言った感覚です。

ですので、一度に、何種類ものパズルを頭の中に浮かべておくのは大変で、実際には、今は一つしか浮かべていません。作業を行うときに集中して思い浮かべるのですが、ピースの数が多いパズルほど、頭の中で展開するまで時間がかかります。ですからこういった連休中が、一番考え事をするのには最適なのです。

ところが、そうはうまく行かないのです。

全てがうまく組み合わさるという感覚がないと、全く一歩も前に進みません。

仕方がないのでこうやってBlogを書いているという、言い訳ですが(笑)。

ジグソーパズルが組み合わさるという感覚も、単に空間的に、と言うよりは、時空間上で、それぞれが繋がって、データや論理という水の流れが全てうまく流れていくと言った方がより適切です。
アプリケーションを設計すると言うこと

ずいぶん昔に、すでに書いていたことです。これを人間系対人間系、すなわち社会系のレベルに適用すると言うこと。すなわち、人の流れをつくるために、人を動かす仕組み造りがポイントでした。つまりジグソーパズルの「ピース」とは、「人」以外の何者でもありません。

この言葉を読んで、宮大工棟梁西岡常一氏の言葉を思い出しました。

塔組みは木組み。木組みは木のくせ組み。木のくせ組むには、人を組め。人を組むには、人の心を組め。

五重塔を支える一本一本の木にはくせがある。何年も経てば反り返る木を見極めるのは人間にしかできない。そう言う木を組み上げる職人を育て上げることは、職人自体の心を組み上げることである、と言うことです。
本社と言う建屋こそ人の心を組むことができる

「人の心を組む」。これをこれからお客様となっていただく人やその協力者にまで拡げるだけ。やっとこの立体ジグソーパズルの完成が、見えてきました。 KAI