レトリックとしての自虐と悲観

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オバマの大統領就任演説は、その内容よりも何よりもこれに対する周囲の反応が面白い。とりわけウチダ先生の、大統領就任演説を読んでが、これまた面白い。

ここで論じられている「ウチダ仮説」は一見それなりに納得のいくもののようですが、残念ながらなぜ「この語法を採用する以外に手だてがない」のか、その理由が説明されていません。

こうやって現に私自身が日本の特殊性を論じるときすでに「アメリカではこうである。それに引き換えわが国は・・・」というワーディングを使ってしまっているではないか。
私たちはこのワーディング以外では日本について語ることができないのである。
少なくとも日本人読者を「頷かせる」ためには、この語法を採用する以外に手だてがないのである。

これと同様の問題が、件の日本の過去に対する「自虐史観」と、日本の将来に対する「悲観論」です。前者は、日本の過去を貶め、後者は、日本の未来を貶める。そもそも、こんな「自虐史観」も「悲観論」も、ほんの一部の日本人とメディアが扇動しているだけのこと。同様に、日本人が「水平的」と言う「ウチダ仮説」も、これもまたメディア主導の自虐的レトリックの一つに過ぎません。

このレトリックにかかれば、米国に対する日本も、過去の日本も、未来の日本も、彼らにとってはたちまちすべてが、自分たちの主張の正当性の根拠と化します。しかもウチダ先生も書くように、日本人読者はこのレトリックに馴染みやすい(つまり簡単に引っ掛かる)。

これがなぜかと言うと、日本語独特の叙述的思考方法にあると、KAIは考えています。

語順の制約を受けない日本語には、過去も未来もその区別はありません。すべては絵巻物の世界として、今の中に空間的に配置されます。この意味では確かに日本人は「水平的」です。対する漢文や英文の世界では、語順と言う時間的配置こそ、その意味の根幹を成す。まさに思考のレトリックとしての、言語のその特性があるのです。

と言うことで、ことの本質がこの「レトリック」にあると考えると、すべてが納得できます。レトリックとしての自虐史観であり悲観論であり、オバマの演説に引き換えだと言うことです。しかもこのレトリックは、これは随分話が飛躍しますが、日本語の謙譲語と同じ構造になっています。

ただ違うのが自分自身が謙るのではなく、微妙に自分の所属しない、日本の過去や未来、はたまた現在の自分以外の日本を謙らせる。自分はしっかり安全圏におく。まことに姑息なレトリックであります。 KAI