竹中嫌いの本質

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元旦夜のNHKスペシャル「激論2009/世界はどこへそして日本は」に始まる一連の議論が、非常に面白い。もちろんKAIもずっと視てたのですが、カフェ・ヒラカワ店主軽薄の 「内向き」礼賛。 に描かれているとはまったく正反対の印象でした。しかしKAIも自分自身相当な色メガネをかけているつもり(笑)ですが、どうすればこう言う見方ができるのか不思議でしょうがなかった。

それが、池田信夫blogの格差の正体を読んで、この問題の本質が、以前からKAIの言う「既得権との戦い」にあることが、よく見えてきた。

その是非(受け入れるかどうか)は置いておいて、金融、製造、商業いずれにおいてもグローバリゼイションと言う市場経済の流れは不可避であり、国家としてこれに対応するのは当たり前過ぎる話であり、今更時計の針を戻そうなどと言う議論はまったくもって無意味、無益であり、逆に害毒でさえあります。

既得権者との闘いは、旧くは電電に始まり、銀行、道路、郵便局、サラ金、日教組、そして本丸の公務員とまだまだ続きます。
これが市場経済ってもんよ中村くん

ですから、内向きか、外向きか、右肩上がりか、右肩下がりかなんて議論はまったくもって本質でも何でもなくて、ことの本質は既存メディアも含めたこれら既得権者といかに戦っていくかであります。

そのポイントは三つ。

一つは、既得権者は、文字通り、「権力」を持っていることです。この「権力」と素手で戦うことが出来ないのは明らかです。すなわち「権力」には「権力」をであり、その「権力」とは、「政治」以外にはありません。そしてこの「政治」を左右する世論に強い影響を与えているのが、これもまた既得権者であるメディアと言う「権力」です。

そして二つ目のポイント。その言説の張本人が、実は間違いなくこのいずれかの既得権者のうちの一人であるか、関係者であることです。つまり彼らの言説は、この既得権によるバイアスを否定できないと言う隠蔽できない事実です。

最後三つ目のポイント。なぜ戦うのか。なぜ戦う必要があるのか。それは「人を助ける」ために戦う必要があるのです。自分のためであれば、単にそれを受け入れなければそれはそれだけのこと。他人にとやかく口を挟むのは、それこそ「お門違い」も甚だしい。

かような三つのポイントから、「激論2009」周辺の議論を眺めると、ほとんどが既存の既得権の代弁者であることがよくわかります。そうでないのは、池田信夫と竹中平蔵くらいなもんです。もちろん池田氏には同意できても、竹中氏はどうしてと疑問に思われる方が大半であることはわかっています。ですからKAIが、この文章を書く必要があるのですが。

彼がマスメディアに登場し始めた当初より、彼の言動を目撃してきたKAIにとって、今に至る世の中の流れを明確に見通していたのは、当時から竹中平蔵以外にはいませんでした。この彼が、その意味でグローバリゼイションの権化のようにいわれるのは、当然といえば当然のことです。

そしてこのグローバリゼイションの一番の抵抗勢力こそ、かの「既得権者」たちに他なりません。

もうここまでいえばおわかりでしょう。竹中嫌いの本質とは、既得権者あるいは彼らの代弁者たちによる嫌悪以外にはないと言うことであります。 KAI