我慢も、それは時によりけり

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週末テニス、日曜。久しぶりの秋晴れ。絶好のテニス日和に、なぜかいつまでたってもペースをつかめない。

2-6、1-6、2-6。なんで?

体調も良いし、頭も、例の通り「クリア」なのに。

3連敗して、はたと気がついた。ずっと、わずかな尿意を催しながら、これを我慢していることに。別にゲームを終わってからでもいいと、無意識に思っていた。しかし、これが微妙に影響していることに、やっと気づいた。

我慢の境界線上は、水彩画の二つの色が隣り合うように、二つの色気が滲み合う。この滲みは、絵画なら許されても、勝負の世界ではご法度。スポーツ選手に色恋がご法度も、これまた同じ理由。

そうです。つまりは、ほんのわずかな身体のシグナルである気の乱れに、勝負の世界の気の流れは、これを無視することができないと、またあらためて「気の法則」を深く理解したのでした。

気付いたとおり、トイレに行ったあとの第4セット。結果は時間切れながら、4-2。確かな手ごたえに、間違いはありません。

土曜テニスも、恐らくこれがわかっていなかった。

小雨が一向に止まない(これも尿意と一緒の)なかでのテニス。

結果は、たったの1勝の4-6、6-0、3-6、1-1。もしこの気の「滲み」に気付いていたならば、まったく結果は違ったものに。

しかし、小雨による「滲み」とは。

また、きわめて高度な課題に、アンジェロでカンパイ。 KAI