案の定と言うか予想通りと言うか、岡田ジャパンの優勝は叶わなかった。
岡田監督が理解すべきは、自身のサッカー理論の正しさではなく、プレイヤーである選手たちの、このサッカーと言うゲームに対する彼らの価値観、ただこの一点につきます。
オシムサッカーの凄さは、オシムの「哲学」とも呼ぶべき彼の価値観を、一人の例外もなく選手たちの価値観としたことであり、逆に言えば哲学を理解できない選手が代表に起用されることもあり得ません。
なぜ「哲学」を共有することが大事なのか。
それは勝負のレベルが上がれば上がるほど、戦いあう選手と選手の間は技のレベルの勝負をとっくに超えた、「哲学」レベルでの勝負になるからです。
「哲学」レベルの勝負とは、戦いのすべてのシチュエーションにおいて、一人一人すべての選手が「予知能力」を持って戦うことを意味しています。この予知能力を理解するには、過去のエントリー予知能力を読んでいただくと多少分かるかと思いますが、意味は違うけれどもう少し分かりやすい言葉で言うと、ゲームの主導権をとるとかゲームを支配するとかです。
哲学と予知能力とゲームの勝敗がどう繋がるのか、長くなるので割愛させていただきますが、気の研究にとってきわめて重要なテーマであります。
そして「哲学」レベルには遠く及ばないものの、「哲学的」週末テニス。
土曜、日曜ともおそろしく1ゲーム、1ゲームに時間がかかって、結果は土曜、6-1、6-3、3-3、日曜が7-5、1-6、4-3。1ゲーム、1ゲームに時間がかかるのは、デュース、デュースを繰り返すからですが、これはすなわち土俵際の踏ん張りと一緒で、踏ん張る側の俵となるのが「開き直り」です。あきらめて勝負を投げ出すのではなく、欲をいったん捨てたところでとたんに、自然なプレーが戻ってナイスショットが生まれる。
やっとリアルなゲームに明かりが見えてきた。 KAI
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