畏れと祟り

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いまなぜ、将門の首塚なのかしらないけれど、この記事にはなにか感じるものがあった。

 将門を祀った神社は江戸を守るために遷座したが、塚までは、さすがに動かすことはできない。幸いなことに、江戸時代、あたりに屋敷地を与えられた大名はみな、塚を築山と見立てて大切に保存した。だからこそ泰平の世が長く続いたのか、はたまた泰平の世だから塚を大切にできたのか、それは受け取り方しだいだろう。
 関東大震災後、塚は崩され、発掘までなされた。その後の日本は大東亜戦争へと突き進み、壊滅的な敗戦を迎える。「畏れ」を失った人間と国家にどんな運命が待ち受けているか、将門は無言でわれわれに教えてくれているような気がしてならない。 (桑原聡)
(産経新聞、聖地巡礼将門首塚(下)、畏敬の念持つ大切さ、2008/2/14、p.19)

幸之助の起業と同時並行的に起こった関東大震災から、その後の大戦へ至る話をしていたせいかもしれませんが、しかし考えてみれば、今の世の中、一番欠けているのがこの「畏れ」の気持ちです。そして、この畏れの欠如とそれによりもたらされる祟りこそ、現代社会の伏流を支配する根本原理である気がします。

9.11と言う祟りも、米国と言うグローバリズム主導社会の中枢にある、異文化、異教への畏れの欠如であり、ロシアのチェルノブイリ事故も、自然への畏れを失った現代科学がもたらした祟りそのものです。

どちらもいまだ終結することはなく、例えば後者の石棺といわれる密閉したはずの原子炉から、多量の放射性物質が拡散しており、当然のようにロシア政府はこれを隠蔽し続けています。

さらに偶有性国家「中国」による世界中に拡がる毒物汚染、環境汚染は、人民に対する畏れを持たない中国共産党と言う独裁者が、人類にもたらした祟りそのものと言えます。

国内問題もしかり。年金問題や後を絶たない偽装問題、これらも役所を中心とした「既得権者」による国民、消費者に対する畏れの欠如がもたらす祟りそのものです。

なるほどこれらすべてが、資本主義、共産主義にかかわらず現代社会と言うものが、自然や人類祖先といった、到底人の力の及ぶことが不可能であるものへの無条件の「畏怖」を忘れ去ってしまった、いえ、積極的に排除してきた帰結であるとしか考えることができません。

しかしチェルノブイリ事故でも分かるとおり、「祟り」によりもたらされる厄災は甚大にして取り返しのつかないものばかりです。

そのために人は、昔から「畏れ」を社に祀ることで形にして、人々が「畏れ」を忘れることのないように智恵を働かせてきたのです。にもかかわらず、「社」は、すでに当の昔に家の中からは消え、地域社会ばかりか、靖国に代表されるように国家からもさえ排除されようとしているのです。

今一度、現代社会が「畏れ」と言う人類存続の根本原理を取り戻すために、より大きな智恵を働かせる必要があると言うことです。これはKAIにとっても、最も重要なテーマであります。 KAI