松下幸之助の言葉(24)

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松下電器の歴史は、まさに日本の家電の歴史舞台そのものです。

その舞台にやっと東京通信工業(現ソニー)が登場します。

以前ここにラジオ放送の始まりに触れました(松下幸之助の言葉(17))。この1925年3月22日の放送開始から遅れること30年、1955年8月、東京通信工業はトランジスタラジオの開発に成功します。

今までの真空管に変わるトランジスタは、この7年前、1948年ベル研で発明されます。これを当時誰も考えなかったラジオに応用したのが、東京通信工業だったのです。

そしてこの歴史舞台に新たに登場するのが、今も続く「家電の王様」、テレビです。

1939年7月13日の実験放送に始まる日本のテレビ放送は、1953年2月1日本放送を開始します。この放送を受信できるテレビ受像機を、松下は実験放送当初から開発に成功していたのです。本放送開始とともに、一気に日本中にテレビがいきわたり始めます。そして本放送開始後5年、1958年テレビ受信契約数は100万世帯を超えます。

一気に日本と言うスポンジが、家電と言う水を吸収するかのような勢いで、松下は急激に成長を遂げていくのでした。

 このころ幸之助は、「松下電器は一体どこまで伸びていくんですかね?」と、あまりの成長ぶりになかばあきれ顔で質問されることがしばしばあったが、彼は「それは私や会社が決定するべきことではなく、社会に決めていただくことだと思います」と答えるのを常としていた。彼は「一般大衆」という顔の見えない人々を意識し、それを尊重し、敬意を払い続けた。
 自分の行っている経営判断は、この目に見えない一般大衆を相手に、いわば「声なき約束」「見えざる契約」をしているのに等しいのだと周囲に語り、この「見えざる契約」を果たしえた集団こそがあ時代を先取りでき、「見えざる政治」によっておのずと社会に対して指導力を行使していけるのだと説いた。
 これが有名な、松下幸之助の「魁のリーダーシップ論」である。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第22回、北康利、2008/2/5、p.21)

現在のインターネットの、ユーザーに聞くしかない世界を、すでに彼は半世紀前にわかっていたのでした。

以降1960年、池田首相の所得倍増計画実現と機を同じくして、幸之助は社長の座を娘婿の正治に譲ります。

1964年には、景気後退のあおりの中で有名な「熱海会議」を開催し、販売の引き締めをはかるのでした。

こうして歴史を俯瞰すると、企業と言うものは、つくづく運に左右されていることがわかる。

だから、今はこの運の力にかけるしかない。そう言うことであります。 KAI