松下幸之助の言葉(23)

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幸之助が長者番付のトップに躍り出るのが1952年(昭和27年)、1950年朝鮮戦争勃発後わずか2年後であります。

この1952年、丁度前年の1月18日幸之助の生まれて初めての海外渡航で始まったオランダの電機メーカーフィリップス社との提携交渉が、まとまります。

 こうして昭和二十七年(一九五二年)十月三日、幸之助はフィリップス社との提携契約調印のため、オランダへと向かった。
(中略)
 フィリップス社との提携に関しても、最後の最後まで悩んだというその言葉に偽りはない。むめのは、幸之助が夜も眠れずやつれていく姿をそばで見ていたが、どうすることもできなかった。
 しかし彼は決断した。(あのフィリップスの研究所をつくるには何十億円もかかる。二億円でフィリップスという大会社を「番頭」に雇ったと考えたらええやないか)それが、考えに考えぬいた末に彼の頭の中で整理された結論であった。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第21回、北康利、2008/1/29、p.18)

この提携契約の効果は絶大でした。提携の結果1952年12月松下電子工業が設立され、ここで、真空管、ブラウン管、蛍光灯などの生産が開始されます。これらの商品は市場で高い評価を受けると同時に、松下電器製品の部品としても使用され、松下製品全体の品質を一気に向上させることになったのでした。

今でこそ日本は技術力を世界に誇れるまでに成長しましたが、当時海外との技術格差は想像を絶するものでした。

このフィリップス社との技術提携が松下の成長を磐石なものにしたことは、間違いありません。まさに技術は力なり。販売力と言う鬼に、技術力と言う金棒を得た松下は、1954年175億円の売上を上げ、282億の日立に及ばぬものの184億の東芝と肩を並べるまでに成長し、更にその十数年後、日立、東芝、三菱の「ビッグ3」を見事抜き去ることになるのでした。 KAI