井植歳男の辞表提出は、一昨日書いたとおり、井植3兄弟に社長の芽がないと知った結果でした。
こうして、松下電器最大の危機が続きます。
1946年、歳男の退社以降、1948年には経営に行き詰まり、1949年レイオフまで追い詰められます。銀行に対して奇策で乗り越えようと幸之助は必死でした。
こんななかの1950年、神風が吹きます。1950年6月、朝鮮戦争が勃発するのです。
これで幸之助は息を吹き返します。
一方井植歳男は、三洋電機を創業します。
昭和二十二年(1947年)二月、さしあたって、大阪の守口市本町に六畳一間を借り、三洋電機製作所という個人経営の会社を立ち上げた。
父親の清太郎は海運業を営んでいたし、歳男自身、松下に入る前は海の男にあこがれ、叔父の船に見習い船員として乗船していたほどだったから、海にちなんだ三洋という社名にしたのだ。そこには、太平洋、大西洋、インド洋をまたにかけるような世界企業になりたいという大きな夢が込められていた。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第20回、北康利、2008/1/22、p.25)
この三洋電機は、瞬く間に松下のライバルになるほどまでに急激に成長を遂げていくのでした。
この結果を見れば、井植歳男と言う人間の器の大きさに、ただただ感服するしかありません。 KAI
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