シンクロニシティ、強烈な共時性と言う力が働いています。
松下からパナソニックへ。
いまなぜ松下なのか、同行二人なのか、実はKAI自身今ひとつ理解できていなかった。これがやっと、この話をきいてこの意味がわかった。
今日届いたばかりの日経ビジネスの記事を読むと、すべての事情が氷解する。
中村の座右の銘「同行二人」。巡礼者が空海とともに歩むことを意味する言葉だが、中村も「破壊と創造」という苦しい旅を続けながら、常に「幸之助ならどうするか」を自らに問いかけてきた。「あの時期、中村さんは毎晩、枕元に立つ幸之助翁と議論していたのかもしれない」。松下興産の処理に関わったある人物は、こう振り返る。
今にして思えば、中村自身にとっても松下電器にとっても、松下興産の処理が正念場だった。
(日経ビジネス、緊急特集 松下、完遂した革命、2008/1/21、p.9)
中村とは、松下電器現会長の中村邦夫である。中村は、2000年6月社長に就任以来、「中村改革」と呼ばれる一連の改革を断行し、2002年3月期4310億円の赤字まで転落した松下電器を、2007年3月期決算で4500億円の営業利益を出すまでに再生させます。
この一連の改革の中で、最も中村が神経をすり減らしたのが、上の引用文章中にある「松下興産の処理」でした。
松下興産とは、松下正治が会長、幸之助の孫娘敦子の夫、関根恒雄が社長を務めた、松下家の資産管理会社であって、松下グループの倉庫などを管理、松下グループの株式を大量に保有していました。この松下興産が、バブル崩壊と共に残った7000億の借入による3000億の債務超過に陥ります。中村は、これを最終的に2005年10月特別清算と言う形で決着させますが、この処理の過程こそ幸之助との「同行二人」の旅であったわけです。
2006年6月会長となった中村は、社長を引き継いだ大坪文雄による今回の社名変更によって、一連の「中村改革」を完結させたのです。
1946年末、GHQとの厳しい交渉に晒され心身共に疲労の極致であった幸之助を、更なる試練が襲います。1917年の創業以来30年間苦楽を共にしてきた井植歳男が、辞表を提出し、幸之助の元を去っていくのです。
幸之助がこの事態にあって落胆焦燥しきったことは想像に難くありません。
この幸之助を救ったのがPHP(Peace and Happiness through Prosperity)活動であったと言うのが、(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第19回、北康利、2008/1/15、p.11)を読んでのKAIの感想です。 KAI
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