室戸台風の直撃で壊滅的被害にあった翌年、1935年11月「正価」販売(定価ではなく正当な価格と言う意味の「正価」)を徹底するために、戦後の「ナショナル・ショップ制度」のもととなる「連盟店制度」をスタートさせます。
同年12月、社名を「松下電器産業株式会社」と改め、会社を株式会社組織に変えます。
株式会社組織にすると同時に社内向け基本内規を制定したが、特筆すべきはその一五条であった。<松下電器が将来如何に大をなすとも常に一商人なりとの観念を忘れず、従業員またその店員たることを自覚して、質実謙譲を旨として業務に処すること>。まるで現在の松下電器に対する遺言のようにさえ思える一条である。「常に一商人なりとの観念を忘れず」という言葉に込められた思いは深く、かつ重い。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第17回、北康利、2007/12/25、p.12)
「一商人」たれとは、会社で働くことの意味をものの見事に言い当てています。「社員」などと言う、一人一人が会社の構成員であることしか表さない言葉ではなく、「一商人」すなわち「商(あきない)」する人たれと言うのです。どんな技術者であろうが事務職であろうが関係なく、会社で働くとはすなわちみな商いである。商いとはつまり、まずいの一番にお客様があってそのお客様相手に商品なりサービスを提供し、そしてその対価を頂くことにつきるのです。
これを会社で働く一人一人すべての者が徹頭徹尾自覚することを、幸之助は求めているのです。
この2年後、1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発し日中戦争が始まります。この戦時体制の下、松下電器は民需、軍需を支えていく中、従業員の中から何人も次々と徴兵され戦地へ送られていきます。そして還らぬ人となった従業員の為に、幸之助は1938年高野山に物故従業員供養塔を建て、慰霊法要を行います。
幸之助は、物故者の名前を一人ずつ読み上げ、最後に彼らに語りかけるようにして話し始めた。「松下が今日あるは、あなたがたの尽力によるものだ。しかるに、この松下電器の繁栄を見てもらえないとは・・・残念だ・・・」
人一倍社員を大切にしてきただけに、激しい感情が湧き上ってきて彼を押し流した。(そらまた大将泣きはるぞ)社員たちもおおかた予想はしていたが、果たして挨拶の途中ですすりあげ、絶句し、しまいには号泣し始めた。
一方で幸之助は、自分ひとりとなった松下家の再興を考えてか長女幸子に養子を迎えます。平田正治です。正治の祖父が明治の実力政治家平田東助であり、その嫡男が日本画家の平田栄二伯爵、その栄二伯爵の次男が正治です。
二人は1940年結婚式をあげ、以来幸之助は正治を後継者として厳しく鍛えます。病気がちの幸之助はなによりも正治にはやく後を継いでもらいたいと願ってのことでした。しかし正治は派遣された上海で運悪く結核にかかってしまいます。二年間の療養で完治はしますが、幸之助にとって引退どころではなくなりました。
まことに運命とは、人の意に沿わないでいて、人の思いの隙を突いてきます。これをのりこえてこそ、人はまた一つ強く生きることができるようになるのだと信じています。 KAI
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