門真に本社を移した1933年、幸之助は日本で初めてとなる事業部制を導入します。1931年の880余名から2年で1600人と急拡大を続ける中での幸之助の経営判断です。
従業員数は約千六百人に達していた。さしもの幸之助も全従業員の把握は困難である。「経営者の感情の及ぶ、ほどほどの大きさの企業体」を理想としていた彼は、経営理念を文書にして「思い」を徹底する一方、事業部長を通じて従業員を把握することにしたのである。独立採算制が採られ、研究開発から製造、販売、宣伝にいたるまで、すべて事業部ごとに行うこととなった。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第16回、北康利、2007/12/18、p.24)
しかし幸之助は事業部長にすべてを任せるわけではなかった。最終決断は自分にあるとし、「経理社員制度」と呼ぶ「横串」の制度を導入して、「縦串」である事業部の中に、事業部長の施策立案に拒否権を持つ幸之助直轄の経理社員を送り込んで、情報収集を図ります。
そして幸之助はこの経理社員を使って、こんなことまでやってしまいます。
側近にだけ漏らした彼の本音が、今になって少しずつ明らかになりつつある。例えば元松下電送会長の木野親之が幸之助から聞いたところでは、社長決裁を下ろした案件のうち、六割ほどは何かしら気に入らないところがあったという。しかし、全重役が判を押してきたわけだから、彼らの顔を立ててやる必要がある。
凄いのは、幸之助が木野に向かってそっと漏らした次の言葉だ。
「社長決裁に上がってくるような案件は、おしなべて決済から実行までに日数がある。その間に、うまく自分の思い通りになるよう持っていく。それが社長の仕事や。これができなければ経営者やないやないか」。きれいごとだけでは語れない経営の神髄がここにある。
いくら組織がでかくなろうとも、経営判断をした責任はすべて自分にある。そう思えばなおさらすべての判断に疑念を残さないようにもっていく。至極当然と言えば当然のことであります。
翌1934年9月21日、室戸台風が大阪を直撃します。本社一部損壊、乾電池工場全壊、配線器具工場全壊と壊滅的被害を受けます。肩を落とす配線器具工場の工場長後藤清一に向かって、幸之助が言います。
「後藤君なあ、こけたら立たなあかんねん」
時を超えて、幸之助が今のKAIを励ましてくれたのでした。 KAI
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