松下幸之助の言葉(17)

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この時代の「電気」と、今の「インターネット」は恐らく同じ意味、同じ価値を共有しているのではないか。この連載を読むとつくづくこの二つの時代が二重写しに見えてきます。

松下電器の成功物語を語る上で欠かすことのできないのが、「ナショナル・ランプ」ともう一つ「ラジオ」です。

松下電器創業まもない1920年、世界で初めてのラジオ放送がアメリカで始まります。それから遅れること5年、1925年3月22日NHKの前身である東京放送局がわが国で最初のラジオ放送を開始します。同時に早川電機工業(今のシャープ)が国産第一号となるラジオ受信機を発売します。

松下電器はこのラジオ受信機の製造に1931年に参入し、製品を完成させます。

 全幅の信頼を得て腹をくくった中尾は、研究部の部員十数名とともに三カ月間寝食を忘れて研究に没頭し、ついに従来の欠陥を克服した改良型ラジオ受信機の開発に成功する。
 ちょうどこのとき(昭和六年)、日本放送協会東京中央放送局がラジオ受信機の懸賞募集していたので、完成したばかりの試作品を応募してみることにした。全国から一一八の業者が応募してきたが、松下電器製作所の出品した「三球式ラジオ」は見事一等に選ばれたのである。中尾の努力が報われた瞬間だった。
 一等当選を果たしたラジオは「当選号」と命名されて発売される。幸之助はアイロンの時のような安売りをしなかった。何と今度は、一流メーカーの製品より高い価格で売り出したのだ。
 消費者の気持ちは自分と同じはずだ。少々高くてもいいから故障せず、聴きたい番組をちゃんと聴けるラジオを欲しているのだ。いいものなら高くても売れるはずだ、という勝算が彼にはあった。代理店の猛反対を押し切っての賭けであったが、見事に功を奏する。松下電器は新規参入からわずか三年で、市場占有率四〇%という国内最大のラジオ受信機メーカーへと成長していくのである。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第15回、北康利、2007/12/11、p.17)

松下電器という企業の遺伝子を垣間見る上で、このラジオへの新規参入は典型です。そしてそのキーワードが「改良」であることは間違いありません。その「改良」は、単に「製品」の不断なる「改良」だけでなく、その製品を生み出す「従業員」の不断なる「改良」すなわち「教育」にあることも、忘れることの出来ない真実です。

このラジオ参入成功の翌年が、松下電器創業記念日となる1932年、昭和7年です。この記念日と同じ5月現在の本社のある門真に三千五百坪の土地を購入し、急増する従業員を体系的に教育する目的で店員養成所を建設します。更に二万坪まで買い増して、翌1933年、ここへ本社工場を移転してしまいます。

この新しく建設した養成所で幹部に対して幸之助は言います。

 幸之助は幹部研修で、自分が身につけた経営のノウハウを繰り返し教えた。「愛嬌を持て」、「人間的魅力を身につけろ」といったことだが、何だそんなことと言うなかれ。それこそがお客に好かれる秘訣なのだと、商人としての基本をたたきこんだ。
 こう諭しもした。「部下の良さ、偉さがちゃんとわかるか? 自分の部下が百人いるなら、自分の偉さは百一番目やと心から思える人間が真のリーダーや」。この言葉の持つ意味は深い。お客に対してはもちろんのこと、部下に対しても謙虚であるべきだというのが彼の教えだった。
 大卒の新人には特に厳しかった。「頭のいい人は会社を潰し、国まで亡ぼすから、頭のいい人は松下には入れへんのや」とも語った。字義通りの意味ではない。「オレは頭がいい」などと思ってしまっては、そこで成長は止まる。他人の意見を素直にきかなければ、商売の基本が身につかない。そんな頭でっかちな人間はいらない、という意味であった。

次々と改良によって優れた製品を生み出すことのできる強靭な企業体質は、この幸之助の不断の教育によって生み出されていったことは間違いありません。今を生きる私たちにとってまことに示唆深い真実であります。 KAI