大正と言う時代は、大正15年(1926年)その年も押し迫った12月25日に終わり、昭和へと続いていきます。従って昭和元年は1週間しかありません。ちなみに昭和の終わりが64年1月7日で、昭和と言う時代は初めも終わりも1週間しかないと言う面白い符合の時代でありました。
大正が終わる前年の1925年、山本との販売権をめぐる問題を決着させた話が前回までです。この2年後の昭和2年(1927年)3月昭和の金融恐慌が起こります。松下電器も例外なくこれに巻き込まれる事態となります。
当時の松下電器のメインバンクであった十五銀行が破綻し、これに助け船を出してくれたのが、後の松下のメインバンクとなる住友銀行でした。この住友銀行とはつい2ヶ月前に取引が始まったばかりでした。
この幸之助の「強気に出たことを少し後悔し」たのは、住友銀行に対してなんの取引も無しに融資枠を要求したことですが、何と住友は一万円(今の600万円強)の枠を設定してくれたのです。そしてこの二ヵ月後に金融恐慌が起こったのだ。(ほんまに貸してくれるんやろか?)幸之助はこれまで強気に出たことを少し後悔していた。ところが住友銀行は約束を守ったのである。
「もちろん結構です。いつでも使ってください」
こちらが拍子抜けするほどあっさりと、そう言ってきた。住友銀行の堀田庄三元頭取によれば、この時、幸之助はいつでも借りられることを確認しただけで実際には使わなかったそうだが、彼は感激し、心から感謝した。
<多少なりとも不安に思った自分が恥ずかしかった>
後にそう書いている。「人に借りを作ってはいかん。『ギブ・アンド・テイク』ではなく『ギブ・ギブ・ギブ』でいかな」という幸之助が、珍しく「借り」を作った一件だった。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第10回、北康利、2007/11/6、p.28)
KAIも、今から3年ほど前、信用保証協会の保証付き融資ではまるで身動きがとれず何か手だてはないものかと思っていたちょうどその時、三井住友が無担保で7千万円の融資枠を設定してくれました。これには本当に涙が出るほどありがたく、当時の担当者のH口くんには感謝の思いで一杯です。
閑話休題。1926年幸之助夫婦は長女幸子に次ぐ第二子である長男幸一を授かりますが、幸一は翌年2月髄膜炎を患いわずか1年と言う生涯を終えます、
幸之助は天をあおいで慟哭した。彼の両親は、手塩にかけて育て上げた子供たちを相次いで亡くす不幸に見舞われたが、幸之助までもが「逆縁」の悲運に痛憤の涙を流すことになった。
これで幸之助が事業意欲を喪失してしまったのも無理はない。しかし彼は「『お前には社員がおるではないか』という天の声が聞こえてきた」と言い、悲運をみた八卦見からは36歳(この時幸之助32歳)の寿命と占われたことに逆に発憤し、残りの人生を事業に集中していくことになります。原因はなんであれ、この集中力こそ事業成功の要の一つであることは、間違いありません。
そしてその事業。幸一が亡くなった昭和2年、幸之助はKAIも記憶にある砲弾型ランプの次の製品である角型ランプを考案します。これが自転車の用途だけでなく取り外せば懐中電灯としても使えることから、これを自転車店中心の販売である山本商店経由ではなく自ら電気店へ販売したいと考え、幸之助は山本に期間満了まであと1年ある独占販売契約の解消を申し入れます。
これに山本は一万円の賠償金で譲歩すると言う。幸之助は逡巡しながらもこの一万円を払うことを決断します。
これまで幸之助のことを軽く見ていたが、この時はじめて後生恐るべき相手だと刮目して見た。山本は「一万円儲けさせてもらったお礼」だと、幸之助を高野山に招待してくれたという。その後、関係はやや疎遠になるが、縁が切れたわけではなかった。山本が亡くなった時には幸之助が葬儀委員長になっている。
山本という、一個の完成された大阪商人の胸を借りて、幸之助は一回り大きく成長することができた。人との出合いが、その人を成長もさせ堕落もさせる。一万円は捨て金になるかもしれないが、授業料だと思えば惜しくはなかった。
後年の幸之助は「道」という言葉をよく揮毫(きごう)した。「素直な心」に従えばおのずと「道」は開ける。山本との契約を途中破棄までしたのは大きな賭けであったが、結果として道は開けるのである。
前回、この連載と同時進行だと書きましたが、KAIの運命も人との出会いであり、今その運命を託さんとしています。そして必ずその先に道は開けると信じています。 KAI
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