松下幸之助の言葉(8)

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毎週火曜日が楽しみです。「同行二人」連載第6回。

幸之助は、大正6年(1917年)6月15日独立を決意し、5日後の20日依願退職する。このとき幸之助22歳、16歳で入社した大阪電燈には6年間の在籍でした。

 大阪電燈を辞めて独立した当時、幸之助夫婦は、防水布を製造していた吉村安次郎所有の借家に移っていた。二畳と四畳半二間だけの平屋である。
(中略)
 作業場が必要だというので、四畳半の半分の床を落として土間にした。こうなると夜寝るのも容易ではない。
 幸之助がこの世を去ったとき、松下電器産業の売り上げは四兆円を超え、従業員数は二十万人、販売拠点は全世界百六十カ国に及んでいたが、猪飼野(引用者注:いかいの、大阪市東成区玉津)のこの二畳少々という猫の額のような土間こそが、松下電器最初の「工場」であり、幸之助伝説の出発点だった。

ここで、独立前から思い描いていた改良型ソケットの開発を始め、苦労の末10月になってやっと完成する。これを、独立する時一緒にやりたいといって参加したビリヤード仲間の森田延次郎が営業マンとして大阪中を売り歩いたが、売れたのはたった百個。わずか十円(今の十万円)の売り上げであった。

家庭のある、森田も、かつての同僚で一緒について来た林伊三郎も、これ以上は限界と他に職を求めて去っていきます。残ったのは、妻むめのの14歳の弟、後の松下電器の大番頭、幸之助の右腕となる井植歳男だけ。

そんななか独立以来むめのは、まったく収入がないと言う貧困のどん底でやりくりして幸之助を支えてきた。銭湯に入る二銭の金さえなくなると幸之助に夜更けまで用事を頼んであと行水で済ませるようにしむけたかと思えば、米櫃の米が底をつくと、亡父の位牌に供えた米と餅をお粥にして、今日は寒いから餅粥にしましたと言って幸之助に食べさせる、涙ぐましい努力で切り抜けていくのでした。

しかしそろそろ限界という時に神風がふきます。

当時の代表的電気機器メーカーであった川北電気企業社から、年末の12月、扇風機のスイッチの部品の注文が入り、息を吹き返します。

 彼は運を信じて逆境でもくじけず、成功したときには「運が良かった」と謙虚に思い、失敗したときには「不幸だった」と運のせいにはせず、「努力が足りなかった」と反省した。そのことが後の成功につながったのだ。
 松下幸之助は「ものの見方」にこだわる人だった。彼の言葉が警句的で示唆に富んでいるのは、常識と違う自分なりの「ものの見方」を身につけていたからだ。普通の人が常識だと信じている裏にこそ、成功の鍵がそっと隠されているのである。
 ちなみに川北電気はその後、日本電気精器大阪製造所と名を改め、戦後は松下グループの傘下に入っている。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第6回、北康利、2007/10/9、p.26)

ソケットで大失敗しても、それを失敗と思わず成功に結びつけるまで努力し続ける。幸之助の辞書には失敗の文字がありませんでした。

このBlogに、こうしてこの連載の筆者北康利氏の文章を写していると、自分も幸之助の創業に立ち会っている錯覚を覚えます。そしてなぜか元気になる。

彼は、右端が幸せで左端が不幸と言う人生の天秤の中にあって、ほとんどいつも左端にいて、それでも自分はまだ運が良かったと思って努力する。この姿勢に、思わずKAIは頭を下げてしまいます。そして決して諦めまいと、思います。 KAI