松下幸之助の言葉(7)

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「同行二人」連載5回目。今回のテーマは、幸之助の結婚と独立起業です。

明治37年(1904年)11月23日、あと4日で10歳になると言う日に、丁稚奉公に出され働き始めた幸之助は、16歳のときそれまで世話になった五代自転車商会を出て大阪電燈株式会社(今の関西電力)に就職します。

そして20歳で19歳の井植むめのと見合い結婚をし、22歳の時独立します。

 この時、幸之助の手元には、退職金と預金をあわせて九十五円強の金しかなかった。型押しの機械一台買っても百円は要る。百円というのは今日の貨幣価値に換算して百万円強だが、その金がないのだ。これで独立とは、彼の上司でなくても心配したに違いなかった。
 まだ最近のベンチャー企業のほうが、この時の幸之助よりよほど真剣に「起業」というものを考えている。
 少なくとも彼らは自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備えをしっかりして起業している。それでも想定外のことが起こり、本当にうまくいく企業は千に三つなのだ。
 幸之助が大阪電燈を辞めたのは二十二歳。大学を卒業したくらいの年齢だ。最近はこれくらいで会社を興している人間はいくらでもいる。
 もちろん情報量の多い現代と手探りで人生を歩んでいかざるを得なかった当時を比べるのが酷なのはわかっている。それでも現代の若き起業家たちと比べて、幸之助の幼さ、稚拙さはいやが上にも目立つ。彼は決して早熟の天才ではなく、努力で成長していく典型的な大器晩成型だったのだ。

22歳で独立といっても、9歳で丁稚奉公に出た幸之助にとって、働き始めて13年後の起業ですから、決して早い独立ではありません。KAIも24歳で働き始めて、37歳で独立。やはり13年後です。

この13年後には何か意味があるように思います。

それは、独立するための精神的な成熟に要する期間ともいえるもので、通常数年もあれば一通りの仕事のやり方を覚えて一人前の仕事ができるようになります。しかしそれでは独立に至る「何か」が足りません。その「何か」とは何か。それは、働くことの意味を知ることです。そしてその働くことの意味とは、仕事を通して人に喜んでもらうことを覚えることです。これを残りの数年間で覚えて、そして起業に至るわけです。

働き始めて一人前に仕事が出来るようになってくると、毎日の仕事が面白くて仕方ありません。しかしこの時期の仕事の喜びは、自分自身の喜びであって、他人の喜びでも何でもありません。もちろんこの段階で独立する人はいくらでもいます。しかし大抵は一度挫折して躓きます。その理由が自分の喜びだけでは起業の条件を満たしてはいないからだと、KAIはいつも考えています。

つまり他人の喜びのために働くことが出来る人間のみが、独立して会社を創業できるのです。

会社とは、その文字通り社会に働きかけて、その見返りの利益を得るものであることを考えると、社会と言う他人の喜びのために働くことができるかどうか、これが独立の条件であることは、自明です。

しかもこれは、上記引用にあるような、

自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備え

といったある種の「計算」とはまったく次元の異なる、より高度な精神性が必要とされるものでもあります。ですから、逆説的ですが、VCが大好きなこの引用のある種の「計算」こそ、創業後の成功にとって一番の障害になると、KAIは思っているのです。

実は『幸之助の幼さ、稚拙さ』こそが、幸之助の成功の真の要因であった。これがKAIの結論であります。 KAI