ままならぬ身体と言う楽器を操る

  • 投稿日:
  • by

日曜テニス。

昨日にくらべれば蒸し暑いけれど、太陽の光もなくテニスには申し分ない絶好の天気。

にもかかわらず、思ったテニスができない。

一番の理由が目が見えないこと。ボールが二重に見えて焦点が合わないのです。と言いながらパワーテニスをして一気にエネルギーを消耗してしまうから、ミスをして後が続かない。

結果は6-4、1-6、2-6、1-1の1勝2敗1分。

こんななさけないテニスをしながら、今朝読んだ新聞の記事を思い出す。

 私は40年近くかけて挑んだオーボエの演奏を通じ、音楽することには、たくさんの拘束(不自由)と自由があると知りました。
 その拘束とは、練習は当然としてさておき、まず楽器の発音体、つまりリードと呼ばれる部品のことがあります。その短命さ(ベストな状態は3、4日だけ)ゆえに、リードを常に自作し続け、幾度となく手を入れ、ケアをしてやらなければならないという時間的拘束と、そのことから意識を離すことのできない精神的拘束でした。
 しかし、それらがある程度クリアされ、コンサートで自由闊達にオーボエを通して歌い、話すことの楽しさを知ってしまったら、それまでの苦労は、あっけないほどカンタンに忘れ、次はもっと良いリードをなんて思ってしまうのでした。
(産経新聞、宮本楓峯昭(ふみあき)の音楽遥か、2007/9/2、p.10)

宮本さんにとってのこの不自由な楽器は、KAIにとってKAI自身の身体です。このままならない楽器を操ることに未だ折り合いを付けられないでいる自分が、なんとも情けない。もういいかげん若くないんだから、万全の体調なんてありえない。目がよく見えない、ダッシュがきかない、息が続かない。

それでも勝つテニスに切り替えなければいけないのに、ついつい今までと同じテニスをしてしまう。プレイのスタイルを変えることは、なんだか自分の老いを認めてしまうようでいやだった。

そうか、身体を宮本さんの楽器と思えば良いんだ。

この不自由な身体を、楽器を操ることと思えば、全然今までとは別の視点でテニスを楽しめる気がしてきた。

昨日エアコンの修理で行けなかったアンジェロで至福の生ビールを飲みながら、こんなことを考えてにんまりするKAIであります。 KAI