他人の権利をいかに保証するか

  • 投稿日:
  • by

自らの権利を、みな声高に主張しますが、自分の周りの他人の権利に気配りしてますか。

30CM以上、自宅の生垣が財務省所有の狭い通り路にはみだしてる、そこの住民。雨の日のリキの散歩で傘もさせないなんて、まるで無頓着。はっきりいってこんなヤツばっか。

欧州をドライブしまくっているY木夫婦によれば、欧州ではジッパールールと言うのがあって、合流する車どうし、ジッパーのように車が交互に進んでいくそうです。ところが日本では、なぜか入らせまいとする。信号のない横断歩道も最悪です。歩行者が立っていてもスピードひとつ落とさず通り過ぎる車ばっかし。

がんばった自分をほめてあげたいといったのが元リクルートの有森。いまではがんばった自分にご褒美とばかりに、自己収奪の嵐。プレゼントが、いい大人の女の自己収奪欲求実現を正当化する道具になりはてるとは。

これらすべては、民主主義とは個人の権利の実現などと言う蒙昧にあると、KAIは考えています。戦後の蒙昧民主主義教育をもろに受けた団塊の世代、そしてその子供たち、この人たちが主張するのは自分と言う個人の権利であって、決して他人の権利ではありません。卒業式で式典の式次第に従わない団塊教師も、卒業生の権利を尊重する気は微塵も持ち合わせてはいません。すべて彼彼女にとって個人の権利なのです。

しかし民主主義とは、他人の権利をいかに保証するか、これだけです。 自分の権利では決してないのです。他人の権利を保証することによって、結果として他人と言う社会から自分の権利が保証されると言うことです。

これが、まるで神がいて、神が個人の権利を保証するがごとく考えてきた人々。これでは自分が神になっていることに、なぜ気付かないのでしょうか。 KAI