久しぶりにCNETに面白い記事が載っている。桜坂洋・鈴木健・東浩紀の3氏によるプロジェクト・ギートステイトの紹介記事です。
--お二人は40年後の情報社会はどうなっているとお考えですか。
情報社会のイメージとして、大きく2つのものがあります。1つは、情報技術に「エンパワー」された運動家とか起業家がどんどん活躍するような、たいへんアクティブな社会です。もう1つは--日本のネットワーカーの多くはこちらではないかと思いますが--むしろ情報技術のおかげで、自宅にひきこもってだらだらしていても、友だちもできるしコミュニケーションにも事欠かないのでそこそこ充実しているといった、「まったり」した社会ですね。ニートはコンビニとネットがなければ成立しないわけです。従来の情報社会系の議論や未来予測は前者ばかりを注目しがちなのですが、僕はむしろ後者の行方を考えてみたいと思っています。つまりは、2ちゃんねらーやニートの未来を軸に、2045年を考えたいわけです。それはこのプロジェクトのオリジナルかもしれませんね。
東:僕自身の考えというより、「ギートステイト」の中でこうなっている、という設定の説明になります。そこではこう考えています。まずはユビキタス化が進み、環境は情報技術で覆われている。またニート、あるいはその後継者的なライフスタイルも勢力を拡大している。その結果、労働につての考え方はかなり大きく変わっている。なんとなく家でゴロゴロしたり、遊んだりしていても、小銭が入るような技術が開発されている。それが基本ですね。
(批評家とエンジニアが予測する2045年の世界--プロジェクト「ギートステイト」(2/3))
この「ユビキタス化が進み、環境は情報技術で覆われている」と言う認識は、ユビキタスの定義が現状のユビキタスコンピューティングのままであるなら、KAIが考える2045年の社会と、大きくずれています。
KAIの考える2045年の情報社会は、決してユビキタス社会にはなってはいません。それは、2006年の今、どこかさびれた温泉宿に行って、さてこの温泉が2045年にどうなっているか、露天風呂にでもつかりながら思念されれば、答えは自ずと出てきます。決して2045年になってもユビキタスの小指の端にもかかっていないと言うことが。
そうではなく、2045年の情報社会の性格を決定づけるのは、今現在において次々と建設されている高層ビル群と同じように、2045年になって次から次へと開発される高度化されたアプリケーション群の存在です。高度化されたアプリケーションとは、今まで単体で動いていたシステムが、ネットワークで有機的に繋がり、ことごとくのアプリケーションの機能が自動化されていくことを言います。
これは交通網の発達をアナロジーにして考えるとより理解しやすくなります。東海道新幹線が建設され、東京大阪間の距離が飛躍的に近くなって、すでに42年。この42年前の新幹線開業当時、一体誰が、42年後である今の全国の新幹線網や高速道路網、毎日何千便の航空路網を予測できたでしょうか。この交通網のおかげで、全国ほんのわずかな地域を除いて、どこでも数時間以内にはたどり着けるようになってしまいました。
これが、鉄道、道路、航空路という別々のシステムが互いに有機的に繋がることで実現されていることに気づく必要があります。
アプリケーションシステムも全く同様です。一つ一つのアプリケーションの機能がそれぞれ有機的に繋がることで飛躍的に、そのアプリケーションの利用環境が変わります。しかも交通網と違ってアプリケーションは多様です。この多様性においては交通網のアナロジーは無力であり、適切ではありません。このあまりにも多様な人間の意志の世界こそ、すべてのアプリケーションが対象とする世界です。人の意志が、この網の目のように張り巡らされて高度化アプリケーションと言う世界で、縦横無尽に行き来するようになる社会こそ、2045年の情報社会の実相です。
従って、東氏が言う“情報技術に「エンパワー」された運動家とか起業家がどんどん活躍するような、たいへんアクティブな社会”も“自宅にひきこもってだらだらしていても、友だちもできるしコミュニケーションにも事欠かないのでそこそこ充実しているといった、「まったり」した社会”も、いずれもピントがはずれていて、運動家や起業家が情報技術にエンパワーされてアクティブになるのではなく、彼らのアクティブな意志が先にあって、この意志が情報技術(高度化アプリケーション)によってエンパワーされるのであり、逆にひきこもりのアクティブでない意志のもとではいつまでもまったりすることのない社会こそ2045年の社会であると、KAIは考えています。
鈴木:最近、「Web 2.0と新しいフォード主義」という論文を発表したのですが、人間と機械の関係は一体どういうふうに変わっていくのかということに、非常に注目しています。
たとえばAmazon Mechanical Turkは、人間の方が得意だと思われる単純作業(マイクロ・ワーク)を開発者がプログラム上に記述すると、電子市場でマッチングが行われ、作業を仕上げたユーザーには少額の報酬が支払われるシステムです。
ギートステイトでは、この発想を広げた「ゲームプレイ・ワーキング」という概念が登場します。表面上はゲームをプレイしているのですが、それが人間でしかできないリアルな仕事につながっているというものです。この時代には、ゲームをすると、Google AdSenseのようにお金が落ちてくるシステムがかなり普及しています。このようなシステムは、AI(人工知能)が機械で人間を作ろうとしたり、IA(知能増幅器)で機械が人間を増幅するという、ここ50年の主要な潮流と異なり、人間が機械を増幅するという新しいアプローチだといえます。そういう新しい機械と人間の関係を描きたいと考えています。
(批評家とエンジニアが予測する2045年の世界--プロジェクト「ギートステイト」(3/3))
この概念が、実はアプリケーションの本質が何であるかを示す重要な概念であるのですが、すでに本Blogの内なるものと外なるもの(2)と言うエントリーで考察済みの内容です。
つまり、40年後への流れは、よりアプリケーションの本質へと近づく流れであり、これはすでに今、YAHOO!サービスを支えるバックヤードで働く人員が、まさに人海戦術であることを考えれば、すでに今の今から、決して人がアプリケーションを操っているのではなく、アプリケーションが人を操っているんだと言うことは、明らかな事実です。
しかしそれでも、そのアプリケーションを成長させていくのは人であり、いわゆる自己組織化アプリケーションの誕生であるわけです。かくして人の意志はアプリケーションの一部となって機能し、アプリケーションは人の意志として機能を始めるのです。
そう言う情報社会を具体的に描くのが、いわゆる“ユーザーエクスペリエンス”の世界であるわけですが、これは決して“ユーザーインターフェイス”といった表面的な問題ではなく、アプリケーションと人間の関係の本質を具体化する重要な試みの一端ととらえる必要があります。
こう言う話題だとどんどん話が拡がってとまりません^^; KAI
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