月末のクソ忙しい時にこんな重いテーマを扱うもんじゃないって^^;。
筆者は、人間関係を原因とする死には、ほとんどの場合この母性の問題が深く関わっていると考えています。
丁度今朝の産経新聞に西部邁が、今の異様な犯罪の多発に対して、次のような論をのべています。
だが、「狂人とは何か」ということにかんする(作家で保守思想家、ギルバート・チェスタトンの)次のような定義に注目する評論家は一人もいない。「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のすべてを失った人のことである」。つまり猟奇心をそそるような事件の多くは、見様によれば、何の変哲もないほどの合理的な動機に発する単純きわまる犯行にすぎない、ということが見落とされている。たとえば、食事の仕度が大嫌いで携帯メールである種の男たちを誘い込むのが大好きな母親にとっては、我が子を亡き者にするのが合理的な行動だということである。
彼女が持ち合わせていないのは、母親という立場に宛てがわれる(養育に始まり教育を経て貯蓄に至るまでの作業に伴う)多面的な役割を包括的に引き受けるに必要な、安定した感情である。こうした「失感症」にもとづく「合理症」とでもよぶべき病理がなぜ生じたか。その答えは、その人が(家族、地域、職場などにおける)他者との共同体的な関係を失うという意味での「失関症」にかかっていたから、ということであろう。そして誰しもが薄々と感じるであろうように、失関症→失感症→合理症という精神の方向喪失は、現代人の心理を広く覆う症状でもある。
そもそもこういった犯罪が最近多発しているかと言うとそうではありません。少年犯罪データベースドアを参照(finalventの日記のkmori58さんのコメントで教えてもらいました)。同様にこの合理症という精神の方向喪失も決して現代人特有のものではなく、どの時代にも発生する社会人としての精神の潮流そのものと言えます。
そしてまたこの合理症という精神の方向喪失は、KAIの主張する「母性の喪失」の特殊解でもあります。
これを説明するために、まず人間の生死のうちの「生」について考えてみます。ここで男と女の間に子ができることを1+1=3と表現することにします。この1+1を2ではなく3たらしめる力が「母性」です。「母性」なしにはこの世の中絶対に「生」を生み出すことはできません。そして「死」はこの「生」の反対です。つまり1+1=1となります。「母性」が「生」を生むのなら、「母性の喪失」は「生の喪失」すなわち「死」を意味します。
人は、いくら憎いといってもそう簡単にその人間を殺すことはありません。必ずその殺人に至る心の迷宮の階段を登っていきます。登り切ったところで人は二種類の人間に分かれます。殺す人とそうでない人とに。そしてそれは心の中に「母性」を見出した人は人を殺すことはなく、「母性」を見失った人がその人を殺すのです。逆説的ですが人を殺すことでその人が持つ「母性」を取り戻そうとしているとも言えます。
件の高校生と継母との関係は、他人からうかがい知れるものではありません。今となってはすべて闇の中です。ただ明らかなことは、憎んでいた父親ではなく、継母と弟妹を死に至らしめた事実です。父親を殺害しようとしたとも新聞にはかかれていますが、実行していません。しかし継母は殺害した。この違いは、単なる偶然ではありません。
それは継母から「母性」を見失う「何か」があったからです。これを“憎い父親を本来味方であるべき母親が、その憎い父親を裏切るという”何かだと直感するのです。それはなぜか。 KAI
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