一千年時空間のコミュニケーション。当然、一千年の間の情報の淘汰によって、後世に伝わるべき情報が、伝わるべくして伝わっていくと、普通は考えてしまいがちです。しかし、これをよく考えてみると、今ある一千年前の情報とは、実はその情報の中身の淘汰ではなく、記録された媒体が物理的淘汰に耐えて生き残った結果ではないのか、と言う疑問がわいてくるのです。
以前、国会図書館の蔵書の酸性紙問題を取り上げたNHKの番組を見た記憶がありますが、50年でボロボロになる(媒体の)情報は、とても一千年時空間を越えることは不可能です。もちろんコピー(写本)も可能でしょうが、コピーによってオリジナルが持つ多くの情報が劣化するのは避けられません。これがデジタル化しても別の意味の“劣化”が避けられないことは前回すこし触れました。
つまりこの別の意味の“劣化”とはコード自体の劣化のことを指しているのですが、これは、コード自体も媒体の一種とみなせば、デジタル化される前の“媒体”の劣化と実は同じ現象であることがわかります。
これらの考察から導かれることは、一千年時空間のコミュニケーションにとっての必要十分条件が、広義の媒体の、劣化対策以外何者でもないと言うことです。
ここに漢字文化圏の出番があるのではないか、と考えるわけです。もう少しこのテーマの考察を続けることにします。 KAI
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