間主観性−「心配力」の研究(4)

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また一つ大きなヒントをくれる書籍に出会いました。99.9%は仮説( 光文社新書、竹内薫、2006/02)です。(p.230-233)

間主観性
 さて、この本では、あるひとつの仮説を絶対視せずに、常に「グレーゾーン」という観点から眺めることの重要性をくりかえし強調してきました。
 それは、哲学の言葉でいえば、「客観から主観へ」ということです。

 客観とは、世間のだれもが白に近いと認める仮説にしたがう、ということです。
 主観とは、世間とは関係なしに自分だけが白だと考える仮設にしたがう、ということです。
 これは、客観よりも主観のほうがいい、もしくは、主観よりも客観のほうがいい、ということではありません。
 そういった単純な一元論や二元論を離れ、より大きな観点でものごとをみることが大切なのです。
 では、より大きな視点とはなんでしょうか?
 それは、「間主観性」と呼ばれているものです。
 英語では「インター・サブジェクティヴ」です。国と国のあいだの関係、つまり国際は、英語で「インター・ナショナル」ですよね?それと同じで、間主観性は、まさに主観と主観のあいだの関係を意味します。

(中略)

 間主観性というのは、ようするに、「相手の立場になって考えてみる」というだけのことなのです。
 わたしはコレコレこういった仮説を採用している。あの人はアレアレああいった仮説を採用している。でも、ふたつの仮説は互いに完全に矛盾するわけではない−−。
 そうやって、ほかの人々が抱いている仮説を理解して、こちらの仮説も理解してもらうことにより、われわれは、相対的な世界観のもとで、うまく協調して生きていくことができるのです。

反証可能性によって「宗教」と明確に区別された「科学」は、実はすべて仮説で成り立っています。人はすべて、この仮説のネットワークと言う論理の枠組みに依拠しており、相互理解は、互いのこの仮説のネットワークの価値を認め合うことから始まります。

この内容は、以前のエントリー自己組織化するアプリケーション(6)の中で述べたことと同じ話です。

情報の哲学を一言で言うと「情報と言う存在における、存在間の相互価値の共有化」です。共有化であって共通化、同一化ではありません。

情報は思想的には中立の存在ですが、価値は思想の上にあります。思想は、社会の基盤をなし、人々の価値観を支配しまた支援します。ITによる情報現象を、そのまま自然現象のように受け入れるのではなく、相互価値の共有化を実現する方向へと変えていくというのが、これまたITの役割であり、情報哲学と言う「思想」の意味なのです。これはITと言う存在を、科学技術という無色透明の世界で扱っている限り、「意味解釈のロボット化」は避けて通れないと言うことでもあります。

つまり、意味解釈の自己組織化として、ITには「思想」と言う価値が必要であり、この思想に則った世界観に基づくアーキテクチャが求められています。

そして、この相互価値の共有化を、双方向の関係性と言う自己組織化の技術によって具体的に実現します。Blogのトラックバックと言うフィードバックの技術が、不十分ですが、それを実現する技術の萌芽として誕生したのです。

つまりBlogとは、ここで言う仮説のネットワークであり、互いのネットワークがトラックバックによってつながることで相互価値の共有を実現していると言えます。

そこで肝心の心配力ですが、この科学を定義する反証可能性と強く結びついています。これを上記著者は、既存の仮説に対して「先生も、親も、友達も、みんながそういうけど、ホントにそうなの?」(p.199)って疑ってかかることが大事であると説いています。まさにこれは前々回に書いた「ほんまかいな?」です。前々回は「情報」そのものに対して「ほんまかいな?」でしたが、今回は、今ある「仮説」に対して「ほんまかいな?」です。すなわち仮説に対して反証はないのかってことです。

この反証可能性と言う緊張感こそ心配力であり、ネット社会の健全性と発展性を維持するための、源泉となるチカラとして機能すると言うのが、今回のヒントです。 KAI

(余談ですが、以前のエントリーヒトの魂は30グラムで紹介した魂の重さの量り方は偶然にも今回と全く同じテーマの書籍ですが、今一歩この仮説本ほどの掘り下げ方が不十分でした。と言うことで新たなエントリーはありません)