この三日間、気が重くて筆を進める気がしません。件の逮捕がきっかけだと思いますが、それでなぜそんな気分になるのか。無能メディアにも腹が立つし、無能政党にも腹が立つし、無能検察にも腹が立つし、無能東証にも腹が立つし、です。
ネット社会のエートス問題などと言い切ってしまう方は、それではカネボウは、旧UFJはって考えたことがあるのでしょうか。何にもかわりはないでしょう。
むしろそんなことより、ネット社会をネット社会たらしめている根幹、情報の客観性は、一体どこへいってしまったんでしょう。あまりに無責任な情報にあふれていて、無能メディアがわかったふうにそれを垂れ流すだけで、誰も客観的な検証をしません。おまけに検証手段を持たない者は、それを鵜呑みにするだけと、まことに情けない状況です。
とは言え、しかしBlogでは、(あえて引用しませんが)起訴可能性、公判維持可能性、あるいは検察権力の問題についての貴重な分析も随所に見られ、ネット社会全体を見れば、健全性が保たれているようにも見えます。
ネット社会も、「心配力」
そもそも情報の客観性あるいは信頼性を担保するのは、古来から、その情報の所有者であり、発信者です。信頼できる人あるいは組織から出た情報は、信頼できる、であったはずです。ところが今や、メディアをはじめとして、組織から発信される情報の信頼性が、著しく低下し始めているように見えます。
つまり、メディアが伝える情報の客観性とBlogなどネットからの情報の客観性を両者較べると、明らかに後者のほうが信頼できると言う事例が、日に日に増えていると言うことです。
だからと言って、Blogの情報を鵜呑みにしているわけではありません。コメントやトラックバックを追っていけば、どう考えてもこちらの方が正しいと言う結論になるのです。
実はこれは、ちょうど1年近く前のエントリー「情報」とは何か(3)で取り上げた、大澤真幸の言う“第三者の審級”が、メディアからネットへシフトし始めたことの、典型的な徴候です。
そして、この第三者の審級のチカラとしての存在こそ、筆者の言う「心配力」に他なりません。もう少しわかりやすく言うと、ネットで情報を得るときに「ほんまかいな?」と思う気持ちこそ、情報の客観性を担保する力の源泉として作用するのです。
このあたりを詰めているのですが、まだしばらくかかりそうです。 KAI
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