リアリティの喪失社会

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本日は終戦記念日。本日付の産経新聞に、昭和45年(1970年)7月7日付同紙夕刊に掲載された、三島由紀夫の「私の中の25年」と言う随想が、再掲載されています。

筆者は、以前からここに書いている通り、ここ何十年一度も小説と言うものを読んだことがない、まったく文学論からほど遠いところにいる人間ですが、この随想を読むと、三島由紀夫がどう言う人物であったか手に取るように見えてきます。文章の端々から、当時の彼が、知行不一致、精神と肉体の乖離、リアリティの喪失と言う苦悩に覆われていたことがよく分かるのです。

この随想を書いた年の11月25日、あの自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こした事件の映像は、いまだに筆者のまぶたに残っています。事件当時、なぜ彼があのような行動に出たのか、深く考えることはありませんでした。それから時を重ねて35年。今朝のこの新聞記事に出会って、やっと彼の心の中を覗い知ることができたような気がします。

リアリティの喪失。戦後60年の今、最も大きな社会問題が、これです。

逮捕された道路公団の副総裁が昨年、ぬけぬけと記者会見して、道路公団の闇を指摘する猪瀬直樹批判を繰り返していました。こう言うのを厚顔無恥と言うのでしょうが、世の中、厚顔無恥の映像に溢れていて、彼らの人相の悪さに毎日気分が悪くなります。

知のリアリティを担保するのが行動です。精神のリアリティを保証するのが肉体です。社会の精神が、このリアリティを喪失するとは、すなわち国家と言う人間社会の崩壊を意味します。具体的には国家を構成する一人一人の人間が、一人一人の人間を信頼しなくなると言うことです。他人を敬うこともなければ、人を尊ぶこともない。あるのは己のみ。己さえよければと言う社会です。

情報社会も、そのまま現実を写します。これはつまり、インターネットで流通する情報に、どれだけのリアリティがあるのか、と言う問題でもあります。

昨年暮れ、筆者は西垣通氏の論文を取り上げ、情報哲学について次のように書きました。

情報の哲学を一言で言うと「情報と言う存在における、存在間の相互価値の共有化」です。共有化であって共通化、同一化ではありません。

情報は思想的には中立の存在ですが、価値は思想の上にあります。思想は、社会の基盤をなし、人々の価値観を支配しまた支援します。ITによる情報現象を、そのまま自然現象のように受け入れるのではなく、相互価値の共有化を実現する方向へと変えていくというのが、これまたITの役割であり、情報哲学と言う「思想」の意味なのです。これはITと言う存在を、科学技術という無色透明の世界で扱っている限り、「意味解釈のロボット化」は避けて通れないと言うことでもあります。

つまり、意味解釈の自己組織化として、ITには「思想」と言う価値が必要であり、この思想に則った世界観に基づくアーキテクチャが求められています。

難しい書き方をしていますが、インターネットで流通する情報のリアリティを担保する仕掛けとは、情報の相互価値を認め合うことのできる“双方向”の仕掛け以外にはあり得ないと言うことです。インターネット上のアプリケーションによってこれを実現して行くというのが、私たち、ソフトウェアにかかわる者の使命であると、筆者は信じて已みません。

35年前の三島が、文学と言う手段ではなしえないと絶望した社会変革を、私たちの手で実際に行うことができる手前まで、今時代は来ています。 KAI

(訂正)どうも夏ばて^^;のようです。年齢を10年さば読んでました。一部訂正しました。