オープンソースの意味が分かった

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筆者は立場上(^^謎)いつかは「オープンソース」について正面から論ずる必要があると思いながら、なかなかうまい切り口が見つからないまま、今に至ります。

丁度梅田さんのBlogにオープンソースについての記述(次の10年はどういう時代か(2)次の10年はどういう時代か(3))があって、これを考えるきっかけになりそうです。

前稿「次の10年はどういう時代か?」

http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050402/p1

で挙げた3つの要素は、

・Cheap revolution (ムーアの法則10年の重み)
・インターネット
・オープンソース

であったが、最初の2点は「これまでの10年」から継続した大きな大きな流れで、第3点の「オープンソース」ということだけが新しい流れだと思う。むろん「オープンソース」ということを狭義に定義して専門的に議論すれば、それは「インターネット登場より前から考え方自身が存在していた」とかいう議論はあり得るが、あまり興味がない。

「オープンソース」について僕が面白いと思う本質は、不特定多数無限大の人々がインターネットでつながっている状態での「情報」の新しい意味、特に「情報がオープンである」ということがどういう意味を持つのか、ということである。

(中略)

 僕はたとえばこの文中の「culture of sharing」なんてあたりに、「次の10年」を変える「力の芽」の可能性を感じたし、実は今も感じている(Googleの事例は、インターネット全体の開放的空間ではなく社内という閉鎖的空間の中での限定的な話ではあるのだが、それでも徹底的な情報共有が行われるとこれまでとは全く違うことが起こる)。そして、その「力の芽」は、世界中のほんのわずかの部分にしかまだ適用されていない。だからこそ逆に「莫大な可能性」があるのだというふうに考えてしまうのが、「おっちょこちょい」のサガなのである。

確かに情報の共有なんですが、本質は、これに「量」がかかわっていると筆者は考えています。

今までは時間的、空間的に限定されて共有されていた情報と言うものが、ITの進化のおかげで、時間的、空間的制約から解き放たれ、その結果、ある一定以上の今まで考えられない量の情報が取捨選択されることなく、すべての所属するメンバーで共有されることになる。オープンソースは「大量」のすべてのソースコードをメンバー全員が共有すると言う意味で、オープン化の象徴的ムーブメントだと言えます。

では、このある一定以上の「大量」の情報「すべて」を、メンバー全員が共有する意味とは。

これからテニスに出かけますので、続きは帰ってきてから書きます。 KAI