サーチエンジンは21世紀の文化の担い手

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CNETで度々サーチエンジンをテーマに議論があり、私なりにサーチエンジンに対する考え方を整理したいと思いながら、なかなかこれと言った切り口がつかめないでいました。そんな時、ふと思いついたのが「新聞」です。サーチエンジンについて考察するのに、新聞と言うメディアがヒントになるのではないか。

昨年暮れ、50年にして初めて我が家で取る新聞を朝日から産経に変えました。小学生頃から父親が取っていた朝日を読み始め、一人暮らしを始めた時も、何も考えず無条件で朝日を選び、以来ずっと同じでした。ところが、丁度20年ちょっと前頃から、朝日の記事の内容に疑問を抱く事例がちょくちょく出てくるようになりました。しかし、まあこれはこれ反面教師として読んでみようと取り続けていました。

これが大きく変わり始めたのが、ニフティのフォーラムの議論に参加するようになった1990年頃です。このフォーラムの議論は、今の2チャンネルほどではないにしろ絶対マスメディアでは取り上げられることのないテーマであり、内容でした。しかも議論の展開は、投書などと言う片思いのラブレターと違って、正に議論に相応しいやりとりが可能なものでした。このような状況の中で、昨年、ジャーナリズムの根幹に関わるある出来事があり、私はKAI家が50年間取り続けていた朝日新聞を止め、産経新聞に変えたのです。

この出来事ですっかり新聞に対する考え方が変わりました。良い意味で新聞を突き放して見れるようになったと言うことです。そりゃ50年間に渡ってつきあって来た新聞ですから、家族同様の感覚からただの「新聞」になっただけと言われればその通りです。このただの「新聞」の感覚と「サーチエンジン」の感覚とが何となく似ている気がするのです。

ここで、話しを単純化するために、「新聞」を次のように定義します。

■「新聞」とは、世の中に遍在する情報を、これに編集と言う付加価値を付けて、読者に届けるための一つの手段である。

この定義によれば、私の取った行動は、編集と言う付加価値の部分を朝日から産経に変更しただけとなります。

しかし、考えてみれば、家で取る新聞と言うものは、昔であれば子供の頃からの唯一の公の情報源であり、今でも、教育を考える家庭の多くは情報源としてテレビより新聞を薦めて、子供にしてみれば社会人としての世界観、社会観、価値観の形成と言う情操教育に関わる部分で、かなりの影響力を持つ存在であると言えます。普通に考えると、自分の性(しょう)にあった新聞を選択して取っていると思いがちですが、そもそも新聞で醸成された自分の性と言うものが先にあるのであって、その性が選ぶ新聞がどれになるかはほとんど自明です。そう言う意味で、家で取る新聞を変えると言うことは非常に重要な意味を含んでいると言うことであり、併せて編集と言う付加価値の持つ重要な意味も認識する必要があります。

ここで、上記の「新聞」の定義を利用して次の定義を行いたいと思います。

■「サーチエンジン」とは、世の中に遍在する情報を、これに編集と言う付加価値を付けて、利用者に届けるための一つの手段である。

このサーチエンジンが扱うネット社会の情報量と新聞が扱う「世の中に遍在する情報」の情報量と間に差があるのでしょうか。一見差があるようにも思えますが、よく考えれば、それはデジタル情報としての違いであって、アナログも含めれば「世の中に遍在する情報」はむしろ新聞の方が大きいと言えると思います。

更にそれぞれの定義の中の「編集」ですが、新聞の編集は記者や編集者と言った完全な人手による作業です。これに対して、Googleの編集は完全な「自動」でありYAHOOは「人手+自動」であると言えます。しかしいずれも「編集」であって、すなわち「付加価値」と言う価値判断の入ったものになると言うことを忘れないようにする必要があります。

「世の中に遍在する情報」を「編集する」のは、新聞もサーチも同じ

話しを整理すると、サーチエンジンと言うのは「対象とする情報とは何か」と言うことと「編集とは何か」と言う二つのことを理解することで、サーチエンジンの役割と今後の展開が見えて来るのではないか、しかも、これは新聞とのアナロジーが成立するのではないか、と言うことです。

対象とする情報とは何か

サーチエンジンが対象とする情報は、すべてデジタルです。これに対して新聞はアナログ情報が中心です。これが、新聞の「編集」を経由してデジタル化され、サーチの対象範囲に含まれるようになります。このことから新聞の情報はサーチエンジンの対象の部分集合であるかのような誤解を生みますが、元々の遍在する情報という意味では既に述べた通り新聞の方がはるかに広い情報を対象としています。

ここで重要になるのが、これだけ広く沢山の情報を対象にしていると言う以上、どうやってこれを取捨選択するのか、「編集」と言う行為以前の問題として、「情報の収集と選択」と言う問題を検討する必要があります。

「情報の収集と選択」にとって必須となるのが「カテゴリー」です。新聞のカテゴリーは、政治、経済、スポーツ、家庭、社会と言う言葉に「面」を付けたものです。このカテゴリー毎に、まず溢れかえる情報を分類します。しかしまだ初期の時点では分類されるのは情報ではなく「記者」です。いわゆる社会部記者、政治部記者です。この記者の中で情報の収集と選択が行われるのです。そう言う意味で、新聞には、世の中に遍在する大量の情報を処理するために、カテゴリー別の「記者」と言う優れた並列処理のシステムが準備されていると言えます。

一方のサーチエンジンについては、色々なところでその仕組みが解説されているので省略しますが、ポイントは、この新聞と同じ「カテゴリー」の存在です。しかもクローラー自体が新聞におけるカテゴリー別の「記者」となって情報の収集と選択を行うと言う仕掛けも、アナロジーとして成り立つのではないかと考えます。このあたりは次回以降もう少し検証したいと思います。

編集とは何か

新聞における編集は、カテゴリー毎の編集者が記者から送られてきた記事の、その内容の重要度によるカテゴリー内の順位付けを行う作業です。この重要度の判断に、これを行う人間の価値観が介在することになります。順位付けの結果は、合格判定と同じく、掲載するしないの分かれ目を作ります。つまり、記者にとって自分が書いた記事が読者の目に届くためには、記事の順位を上げる必要があり、順位を上げるためには、順位を決めるカテゴリー毎の編集者の価値観にそった内容である必要があります。ここで編集者の規制が働く仕掛けになると言うことです。

これに対してサーチエンジンの「記者」は感情を持ちません。感情を持たない代わりに、編集者の価値観を数値化する形で重要度の指標を記事に添付します。指標を使用して、後は機械的に利用者に指標順に情報を届けるだけとなります。Googleを初めとした自動編集を行っている今の多くのサーチエンジンでは、この編集者の価値観は一種類です。新聞のようなカテゴリー別の編集者の価値観と言うものは存在しません。

これが、自動編集でもカテゴリー別の価値観と言うものを指標化できれば、サーチエンジンの有用性は格段に改善されるはずです。

サーチエンジンこそ21世紀の文化の創造の担い手に

日本における定期刊行の最初の新聞は、1870年創刊の横浜毎日新聞と言われています。以来、1872年毎日新聞の前身東京日日新聞、1874年読売新聞、1879年朝日新聞が創刊されて行きます。これらの新聞は創刊以来政府による数々の弾圧に耐え(あるいは迎合し)ながら20世紀の文化の創造の一翼を担ってきたと言っても過言ではありません。これは偏に、新聞の持つ「編集」と言う価値創造機能の賜であるとも言えます。

翻って、現代のサーチエンジンは、政府による弾圧こそないもののこれから始まるネット社会のポータルという領土を争う熾烈な情報戦争の中で、その重要性は高まるばかりです。

こうした中で、今まで新聞が担っていた「編集」と言う価値創造機能の役割が、今やサーチエンジンへ移ると言う大きなパラダイムの転換が起きようとしているのではないかと言うのが本稿の結論です。以下次回以降にこの仮説を検証していきたいと思います。 KAI