サーチエンジンは21世紀の文化の担い手(その4)

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新聞もサーチエンジンも最終的に対象とする情報は同じか

私は、このテーマの最初のエントリーで、

サーチエンジンが対象とする情報は、すべてデジタルです。これに対して新聞はアナログ情報が中心です。これが、新聞の「編集」を経由してデジタル化され、サーチの対象範囲に含まれるようになります。このことから新聞の情報はサーチエンジンの対象の部分集合であるかのような誤解を生みますが、元々の遍在する情報という意味では既に述べた通り新聞の方がはるかに広い情報を対象としています。

と書いて、新聞の方が情報の範囲は大きいと書きました。

更に、前々回のエントリーで、梅田さんのBlog「検索できないコンテンツは存在していない?」の中の、

「サーチエンジンによって見つけられないものは存在していないのと同じ」という危機感が、テキスト・コンテンツに関わる人々の間に醸成されつつある。今日ご紹介するいくつかの記事に共通するのはそんな感覚だ。

に対して私は、

サーチエンジンが対象とするのはデジタル情報ですから、対象になるにはデジタル化する以外には方法がありません。しかしデジタル化したからと言って即取り上げられるわけではないと言うのは、全く新聞における記事の扱いと同じではありませんか。

ここで必要なのは、従来の新聞のような限られた新聞社による編集ではなく、本当の意味で学術的にも営業的にも可能性を持った開かれた編集者の価値観による編集です。世の中で認められるべき情報があれば、いつでもインターネットのボランティア機能を利用したデジタル化が可能と言うのはいつぞやの梅田さんのエントリーそのものです。

とコメントして、サーチエンジンはあくまでデジタル情報を相手にしていると書きました。

ところが、前回の考察の流れからこの引用をあらためて読み直してみると、全く別の展開が見えてきます。それは、「テキスト・コンテンツに関わる人々」と言うのは新聞における「記者」の役割を担いつつあるのではないかと言うことです。どちらもアナログ情報とデジタル情報の狭間にいる存在です。これを「記者」と表現してしまうとある意味で範囲が限られてきますが、新聞の中のカテゴリーを飛び越えて、もっと世の中の学術情報をも含めた広い範囲のカテゴリーの中の一般化した「記者」の存在として認めるならば、サーチエンジンと言うマスメディアはこの「記者」の存在を獲得することによってアナログ情報さえも対象にすることが可能になると言えるのではないか。

仮説の仮説では論が成り立ちませんが、まさに思考実験であるBlogにふさわしいテーマです。

以下来週。 KAI