ゲーム業界沈滞打破パート3

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なんだか映画のタイトルのノリになってきましたが、具体的な方法の提案を考えます。

私は前々回に次のようなことを書きました。

このことから、結論を先に言えば、表現上のリアリティの問題(コード情報)ではなく、意味上のリアリティの問題(モード情報)こそがキーポイントである、と言うことになります。つまり、今のゲームは表現上のリアリティを追求する余り、かえって表現上のリアリティが、意味上のリアリティのじゃまをしていると言うことです。

この仮説が正しいとすれば取るべき道が自ずと見えて来ます。

■意味上のリアリティをどう実現するか
■意味上のリアリティのじゃまにならない表現上のリアリティをどう実現するか

つまり、現在のゲーム業界の沈滞の原因は、ゲームの中からの意味上のリアリティの喪失感によるものであり、これに対してパート2で取り上げたように任天堂の宮本さんは1:1のゲームに戻ることで意味上のリアリティを取り戻そうとしているのだと考えることが出来ると言うことです。

このアプローチ自体は、これはこれで間違っていないと思うのですが、何か、ひっかかるものがあります。

それが何か。

ゲームの中に意味上のリアリティを感じるのも失うのも、すべてゲームをやる人間です。当たり前ですがゲームの中に意味上のリアリティが存在するわけではなく、人間側にこそ意味上のリアリティがあるのです。既にこの意味上のリアリティを獲得してしまっている古い世代は、「パックマン」と聞くだけで十分リアリティを感じることが出来るはずです。

しかし、今の新しい世代は、私の息子のように、もちろんちょっと前まではGCやPS2をやっていても「パックマン vs.」というゲーム自体は彼らの世代にとっては新しいゲームであり、どんどんリヴリーに対するリアリティが大きくなる中で、これがそのまま意味上のリアリティを感じるゲームになるかは、はなはだ疑問です。

ゲーム空間というテレビの中のもう一つのリアルランド

この議論をしながら、薄々感じてはいたのですが、なんだかこれってネット社会のリアリティの話と構造は同じじゃないかってことです。

しかも、前々回に、

インスタントメッセンジャーと言えば松村太郎さんのBlog大学サークルの新歓活動もメッセンジャーでにSFCの状況が書かれていますが、これを読むと、なんだかSFCのキャンパスがリヴリーアイランドの一つに見えてくるのが不思議です。

と書いたように、ネット社会とゲーム空間がオーバーラップさえしています。

実は、これが、今回の問題を解き明かす一番重要なヒントだったのです。

ゲーム空間とは、一つの虚構の世界です。この虚構の世界の中で、自分というキャラクタが戦い、考え、悩み、苦しみ、歓喜して楽しむのがゲームであると定義できます。ただ虚構の世界といえども、その中で自由自在に戦う(プレイする)ためにはもちろんその世界のルールに習熟することが必要です。このルールがシンプルであればあるほど多くの人が参加できるゲームになります。

囲碁というゲームは、たった一つの基本ルール「目に石を入れられるのは周りの石を取れる場合だけ」で成り立っています。このルールによって地というリアリティが保証される仕組みは、ビューティフルとしか言いようがありません。だからこそキングオブゲームの一つとして、世界中の人々に愛されているのです。

ただ、ルールがシンプルであることは、ゲーム空間の中で意味上のリアリティを感じるための必要条件であっても、十分条件ではありません。

では十分条件とは何か。この話の答えでもありますが、このシンプルなルールを使って、現実という世界をいかにシミュレーションできるかどうか、このことが一番重要なことであり、十分条件になるというのが今回の結論です。シミュレーションするのは現実という世界の中の、何でもかまいません。囲碁は地(ジ)という形で現実の領地の奪い合いをシミュレーションします。リヴリーは、正に現実社会のキャンパス空間のコミュニケーションをシミュレートしています。

この現実世界のシミュレーションということが、ゲーム空間という虚構の世界に、意味上のリアリティを付与する装置の役割を果たしていると言えるのです。そしてこれは、今という現実世界に本当の意味で生きているゲームクリエイターにしか、この橋渡しの仕事はできないと思うのです。 KAI