私の11歳の息子がはまっているゲームが、リヴリーとゴゴ市(ごごしと読む)というオンラインゲームです。
先日カード会社から何万円かの使った記憶のない請求が来るので調べたら、後者のゲームで、シード充電と称して料金が引き落とされていました。あわてて後者だけは退会させたのですが、今の息子にとってこれらのゲームがコミュニケーション手段として不可欠なものになりつつあるようです。
このゲームを使って何をやっているかと言うと、ゲームのインスタントメッセンジャーの機能を使っておしゃべりをしているのです。朝起きれば一番に画面に向かっておしゃべりをして、学校から帰ってきてまたパソコンでおしゃべりしてと、朝から晩まで、ずっとです。相手も、学校の同級生から、海の向こうの二十歳の学生からいろいろいるようで、年上のお姉さんには可愛がってもらっているようです。困ったモンだ(笑)。
インスタントメッセンジャーと言えば松村太郎さんのBlog大学サークルの新歓活動もメッセンジャーでにSFCの状況が書かれていますが、これを読むと、なんだかSFCのキャンパスがリヴリーアイランドの一つに見えてくるのが不思議です。
渡辺聡さんのBloginnovate or die:構造問題に突き当たるゲーム産業を読んで、こんなことを諸々考えてしまいました。
We are concerned about the current direction of the industry
任天堂の岩田聡社長がElectronic Entertainment Expo 2004でコメントした言葉である。
チップの開発は当面止まらないが、この進化こそが逆に自分達の首を絞めているというのが岩田氏の認識となる。
Looking at the past 20 years, as long as we could beef up the processing power, as long as we could make computer graphics approach realism, then people were excited about the result.
過去20年、チップのパワーを食い尽くすべくゲームは進化してきた。格闘ゲームはポリゴンになり、リアルな重力と身体観が取り入れられた。長編のRPGは映画のようになり、実際ファイナル・ファンタジーは興行的な是非はともかくとして、映画化に至っている。方向性は、よりリアルに、より現実に近く、である。
しかし、この方向性こそ危ないとする。
unless things changed people "would get tired of games"
このままでは、ゲームは見向きもされなくなってしまう。
今のゲーム業界の沈滞の原因は何か、非常に重要な問題であり、かつ私自身のテーマとして、これを考えることが実は重要な意味を持っています。
抜け出すには、軸を変えるしかない。イノベーションの方向性をずらさなければならないというのが任天堂の考えである。
Mr Iwata hopes the DS will give games developers a chance to be more innovative as well as excite a new generation of gamers.
In order to do this, touch panel and voice input systems will have big possibilities.
任天堂は音声とタッチパネルにインターフェースを変更することでアプローチしている。EyeToyにてアプローチするソニーも同様の視点から捉えられる。
この考えに対してTechnology ReviewがNintendo’s Woesという記事中で小さく反論を試みている。
Even the most “realistic” looking games, like Half-Life 2, are still a far cry from the real thing Humans don’t look convincing, they’re animatronic at best ? with worse lip-syncing than Britney Spears. John Carmack of id Software once said that this is why he prefers to feature zombies and mutants in his games; when a Pinky Demon lumbers awkwardly, no one notices.
映像表現や人間表現はまだまだ未熟でありリアリズムの方向性も掘りきれていないと。
以前私のBlogで、ネット社会のリアリティについて言及しましたが、このゲーム業界の問題も、正にネット社会のリアリティの問題と深く関わっているのではないでしょうか。
私の息子の例で言えば、リヴリーアイランドに住むキャラクター達は決してリアリティのある姿をしていません。しかしメッセンジャー機能がつくことでその背後にいる生身のキャラクターというリアリティそのものとして、息子には見えているはずです。
反対に、従来のロールプレイングゲームでは、ゲームの中の登場人物に対してプレーヤー自身が感情移入することで、ゲームの中のキャラクターの背後に、オンラインゲームのような相手の人間ではなく、自分自身という生身の人間のリアリティを感じていると言えるのではないでしょうか。
スポーツを含めて、競馬、麻雀、世の中のありとあらゆるゲームを考えてみれば、ゲームが楽しいと感じるのは、この「リアリティ」しかも「意味上のリアリティ」に尽きるのではないでしょうか。
このことから、結論を先に言えば、表現上のリアリティの問題(コード情報)ではなく、意味上のリアリティの問題(モード情報)こそがキーポイントである、と言うことになります。つまり、今のゲームは表現上のリアリティを追求する余り、かえって表現上のリアリティが、意味上のリアリティのじゃまをしていると言うことです。
この仮説が正しいとすれば取るべき道が自ずと見えて来ます。
■意味上のリアリティをどう実現するか
■意味上のリアリティのじゃまにならない表現上のリアリティをどう実現するか
意味上のリアリティをどう実現するか
生身の人間のリアリティに勝るものはありません。リヴリーのようなオンラインゲームは益々この方向で進化を遂げていくでしょう。
オフラインのゲームの行き着く先も最終的にはオンラインゲームと考えますが、オフラインでも様々な可能性がまだまだあると考えます。その一つが、占いです。占いをゲームに含めて良いかどうかは別にして最も古いゲームが占いではないかと考えます。この占いがなぜ人々の気持ちを惹きつけて離さないのでしょうか。
この理由は、占いというゲームが、自分や自分の家族、友人、恋人達の人生というリアリティそのものを対象としているからです。(考えてみればロールプレイングゲームも、自分の人生を二重写しにしているのかも知れません)
ゲームの形式は何でもかまいません。要は占いと同じように人生というリアリティを対象とするなら何でも良いのです。今の技術を持ってすれば膨大な人生に関するデータを駆使することで、全く新しいジャンルだって開発できるのではないでしょうか。
意味上のリアリティのじゃまにならない表現上のリアリティをどう実現するか
表現上のリアリティはゲームの楽しさには余り関係していないのではないかと言いましたが、意味上のリアリティの邪魔にならないリアリティとは、例えて言えば「似顔絵」です。似顔絵と写真の違いを考えれば私の言わんとするところを理解して頂けるものと思います。
表現上のリアリティを追求する余り、似顔絵が写真になってしまっているのではないかと言うことです。似顔絵が表現する意味上のリアリティと写真が表現するそれは、それぞれ全く別のものです。写真では、似顔絵が表現する意味上のリアリティは絶対に実現できません。ファイナルファンタジーの映画が失敗したのも原因はこれだと思います。
つまり、表現上のリアリティとは、生身の人間にいかに近づけるかとか似せるとかではなく、それ自体が独立した存在、表現というものがあるのだと言うことではないでしょうか。
ノバうさぎにあなたはリアリティを感じませんか。 KAI